博多 努

一級建築士事務所Tree

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最近の記事

パビリオン・仮屋・市立て

写真は宮島にかつて宮島歌舞伎が行われた芝居小屋「明神座」  場所は嚴島神社のちょうど真裏にあたる大町の三翁神社前。 現在、嚴島神社社務所があるあたりである。 宮島の町名 北之町 中之町 幸町 大町 南町 北・中・南に対し 幸町と大町の町名が不自然に割り込む印象。 大町はかつて奉行所があった場所。 さらに大小の仮設芝居小屋が集積するゾーンであった。 仮屋(かりや)と呼ばれる仮設的な建物が多いのには理由がある。 この町は神社から距離が近く、防火上の理由で建物を建てられない時期

    • Colorless  宮島に色がなかった時

      メディア:シルバープリントモノクロ写真  場所:明治中期厳島弥山登山道大聖院ルート旧里見茶屋付近 嚴島神社と東西門前町を連続的に一望する扇の要からの絵葉書の定番構図。 モノクロとカラー写真。 メディアの違い それは宮島の風景から決定的な何かを剥ぎ取り、欠落感を与える。 しかし、それだけではない。 この時代、実際にそこには色がなかったのである。 鳥瞰写真の接写、ヨリとヒキの中で感じる違和感を起点にして現在と当時の風景の両方をたどりたい。 *旧里見茶屋付近 現在、大鳥居は改修工

      • 移動舞台のセノグラフィー

        ” 仮設舞台・桟敷席としての回廊・表現素材としての海 ” 嚴島神社を描いた絵画として最古の一遍上人絵伝*には1287年社参時の様子が描かれている。舞台を中心にした水上の劇場空間と回廊での観覧や伶人たちによる奏楽の様相がいきいきと描き込まれいる。 (*一遍上人絵伝については現在の社殿と配置が異なることもあり史的裏付けが求められる資料とされる。) 季節ごとに場所をかえ催行される神事の舞台そして、動線から桟敷へと転用される回廊空間。現在に連なる社殿の使われ方のソースイメージがそこに

        • 櫺・連子(れんじ)・空間表現のRANGE

          古い建築に関わると、普段使わない独特な言回しや、すでに死語となったような言葉に出会う。 そのたびに日常風景に揺さぶりをかけられたり、刷新されるような感じを覚えることが少なくない。 櫺 ・ 
欞 れんじ  もその一つで、日常触れることはまずない漢字である。 【訓読み 】てすり のき れんじ 【音読み】 リョウ レイ 櫺は【訓】で「れんじ」と訓むの対して、 連子は【音】で「レンジ」と読み、更に「櫺子」と表記することもある。 音と訓が同じ音、同音同義であるが故に異種の響きを持つ。

        パビリオン・仮屋・市立て

          コロナ禍・丑(うし)年・牛頭天王

          博多家の住所地 宮島町幸町西浜 地名の由来は幸神社 ここにはかつて祇園祭で有名な京都八坂神社と同じく疫病退散の神  牛頭天王(ごずてんのう)が祀られていた。 仏が神の本地とされた時代、薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地とされた仏教、神道、陰陽道が入り混じる習合神。 明治初年神仏判然令(神祇官事務局達)では名指しで嫌われた神であるが、その前の1800年代初頭、幸神社と改められ、牛王町から幸町となっている。 鳥居脇の石碑には博多屋利兵衛 博多屋清兵衛の名が残る。 四度目

          コロナ禍・丑(うし)年・牛頭天王

          室内管絃を外観する

          管絃とは日本古来の宮廷音楽「雅楽」を表し、 西洋のオーケストラ「管弦楽」と区別して「管絃」の字を用いる。 和楽器にうとければ、絃と弦の区別はピンとこないかもしれない。 管楽器と絃楽器による合奏を意味し、 そもそも外来音楽にそのルーツがある。 中国・ベトナム・インド・ペルシャ起源の「唐楽」 朝鮮・渤海起源の「高麗楽」 楽器のみ合奏である管絃に対して、舞を伴うものを舞楽という。 唐楽には管絃と舞楽の両方があり、高麗楽(こまがく)は舞楽のみ。 外来音楽は渡来後は、室内楽として発展し

          室内管絃を外観する

          蛇行する内外の「間」を貫通し俯瞰する 1

          嚴島神社 天神社 (連歌堂) 1556年、毛利隆元の寄進で造営された。歌を詠むために増築された施設。 3間X3間(6mx6m)の九間(ここのま)で構成される室内。 三面蔀戸をスウィングアップすると現れる上下がトリミングされたパノラマ状の水平連続窓。 間のリズム 間口の3分割の柱間、軒先も間口を3分割した柱間であるため、軒先3分割の柱間と部屋の3分割ではスパンが異なる。柱は外の方が細い造りで、内側から見ると、パースペクティブに沿って、外柱が隠れ柱が視界を遮らない。 間の舞台

          蛇行する内外の「間」を貫通し俯瞰する 1

          機能を超えるかたち プロポーション

          同じ比率のものを写真にすると、同じプロポーションの相似形のため、並べなければサイズが把握できない。 写真の杓子には5つのサイズがある。 禅宗で用いる応量器のように用いるサイズによって機能が浮かび上がる道具として考案したものである。 箸があることでかろうじてスケール感が浮かび上がる。 この形は宮島に伝わる杓子の原型を模っている。 形の着想は今から約200年前厳島神泉寺の僧誓真によるものである。 楽器の琵琶の流線的な「かたち」は見立てにより、もっとも身近な生活の道具杓子に近似され

          機能を超えるかたち プロポーション

          ナゴリのトキ   場所との邂逅

          安徳帝を抱く二位の尼・流木・二位殿灯籠・尼の洲 歴史風景の音声検索  ナゴリとトキ 2つの掛詞でヒストリーとリアルタイムをつなぐ。  ナゴリ【 NAGORI 】 名残は「なみのこり(波残り)」が短略した言葉で波残(余波)とも記す。 尼ノ洲の地名は遠く壇ノ浦から波に運ばれた二位ノ尼の忘れ形見、 打ち寄せる波の残響とサンセットの余韻の中 二位殿灯篭の凛とした佇まいはその面影を今に伝える。 立ちかへるなごりもありの浦なれば神もめぐみをかくるしら浪              

          ナゴリのトキ   場所との邂逅

          失われた時を求めて5 船神事・形状記憶

          元禄14年の管絃祭、御座船が地御前から長浜に還る途中、暴風雨のため、転覆の一歩手前まできた時、付近に停泊していた阿賀の鯛網船(岡野一族)と九州からの帰途、厳島に参詣しようとした江波村の古川屋伝蔵が千石船に積まれた小型の伝馬船を下ろして救援した。 最後に江田島の田頭一族が鳥居の下で提灯を灯して導き無事帰還することができた。 御座船単独の自走で行われていた管絃祭は、遭難事故を契機に両村から漕ぎ船を奉仕することとなり大きく姿を変えた。 阿賀の漕船は鯛網船であった関係で現在でも2艘1

          失われた時を求めて5 船神事・形状記憶

          ひろしま 島の記憶

          「ひろしま」は7本の川を束ねた扇形。 標高1300m近くから複数の川が合流し一つになり、そこから七つに分かれる それぞれの川幅が広く、緩衝帯の緑地が市街地を縦断する。 その為、広島の空は広く視線は海と山に開かれている。 そこは水だけでなく空気が流れる通り道。 山風・海風の往復が、昼夜、呼吸のように繰り返される。 そして、大潮の潮位差4M。干満の差が瀬戸内の中で最大の広島湾。 1日2回6時間おきに干満を繰り返す。 潮は最下流から上流の牛田、祇園付近まで登る。 絶えず流れの向きが

          ひろしま 島の記憶

          園丁のいる風景

          蕣(あさがお)のはなくう鹿やいつくしま                 正岡子規 新緑の季節 見慣れた景色の中のわずかな違和感  
木の枝の高さが手入れの行き届いた庭のように人工的、水平に切りそろえられたようなボトムライン。 平地を覆う下草はゴルフ場の芝生のように刈り込まれた印象 石さらに、垣に繁茂する苔の高さ。 定規で引いたように「 Deerline 」が鮮明になる季節。 ディアラインとは鹿の行動範囲によってあらわになる 毎日の食の営みによって可視化されたライン。 柵1つを

          園丁のいる風景

          失われた時を求めて4

          失われた時を求めて4

          失われた時を求めて3 旧暦の時間劇場

          2019年7月19日(旧暦6月17日)管絃祭 i Phone パノラマ写真 御笠浜出発前のカウントダウン  夕凪の中 静から動へ 干潮から満潮にスイッチが切り替わる瞬間 潮、そして天体との同期を体感する稀有な時間 御霊(みたま)の移動 それは式年の神事によって可視化される。 喚起的潜勢力を持つ依代としての自然。 そこに起こる全ては自然現象によって促(アフォード)されているかのようにに見え、神事として時計のように規則正しく執行される。 4Mの干満差の中で現れるダイナミックな

          失われた時を求めて3 旧暦の時間劇場

          失われた時を求めて2    陸海のやなみ

          Annual city  Sea-Gypsies of the Inland Sea 1948年(昭和23年) 7月23日 管絃祭 西の松原付近から 撮影:花田観光社 原爆投下、終戦から1ヶ月後の1945年9月17日枕崎台風が到来。 被爆直後の広島をはじめ、宮島もまた甚大な被害を受けた。河川からの水害土砂で社殿が埋まった嚴島神社はこの年(1948年)ようやく土砂搬出を完了した。 引き続きこの直後から「昭和の大修理」と呼ばれる 社殿と鳥居の修理に突入する節目の年。 写真の中

          失われた時を求めて2    陸海のやなみ

          失われた時を求めて1 海上都市の住所

                  1959年(昭和34年)7月22日(旧暦6月17日)管絃祭 場所は会場(博多屋)の目の前の海岸線 有ノ浦(尼ノ洲) モノクロ写真2枚の合成パノラマ その光景は現在の見慣れた砂浜と防波堤の海岸線とは大きく印象が異なる。 現在の防波堤の位置から約8Mセットバックした位置が当時の海岸線で深さのある雁木である。 海との関係はフラットで、船足場が陸地に渡され、海に対して開いた印象。 そこにいる船の大半は停泊する場所が住所のように毎年決まっており、1週間以上滞在する人も

          失われた時を求めて1 海上都市の住所