「生きづらさ」という呪いを解いていけ
「自然と人のために何かできる人」へのコンプレックスがずっとあった。
おそらくそれは、気配り上手な人そのものへのコンプレックスではなく、「あなたは自分のことばっかり考えているから」と度々言われてきたせいだろう。
人の喜ぶことを考える、奉仕する精神が持ち上げられ、自分のことばかり考えてしまう癖は矯正させられる。
誰が言い出したかも分からない日本人特有の勝手な美学が、10年以上前はそこかしこに蔓延していた。
それらは端的に表すと、「生きづらさ」に集約される。
もちろん、サービス精神や奉仕の精神に溢れた人は立派な才能の持ち主だ。
友だちにもいるし、仕事や育児関係で関わってきた人たち、noterさんでも幾人かの顔が浮かぶ。
そういった人たちは共通して、あるものを持っている。
「人望」だ。
私を悩ませていたものの正体を紐解いていくと、その言葉に行き着く。
人望とは何か。
ひとつ言っておくと、「フォロワー」ではない。断じて。
以前ある情報番組で、こんな場面を見た。
東京オリンピックのロゴ問題で、新たなロゴを作ったデザイナーに対しあるコメンテーターがこう述べた。
「僕はTwitter(当時)のフォロワー〇千人いるんですけど、この人フォロワー30人くらいしかいないんですよ」と。
ほどなくして、そのコメンテーターを全く見かけなくなったのは言うまでもない。
ならば、人望とは何なのだろう。
たぶん、量ではないのだ。かといって質だと、話がずれる。
人望とはきっと、「信頼」なのではないだろうか。
そして、人望を不特定多数から得ようとするから苦しかったのだ。
先日の記事とも絡んでくるが、例えばハサミの刃を向けて渡してくる人間から人望を得たいだろうか。
「ぶっ刺さった」などという野蛮な言葉遣いをする人間から得たいだろうか。
私は自分の周りにいる2割の人から信頼を得られれば、人望があるのだと思うようになった。
高校時代、別室登校をしていた私に、養護教諭の先生が言ってくれた言葉がある。
前述の2割はもちろん、自分に対して好意的な人のことだ。
あのとき先生に教えてもらったのに、大人になってからの私は何を見ていたんだろうな、と今更ながら思う。
私は私の好きな人、大切な人のために、できる限りのことをする人間であればいい。
無理して誰かみたいにならなくていいのだ。
「生きづらさ」なんて呪いは、これからの人生でいくらでも解いていける。
※ヘッダー画像は「みんなのフォトギャラリー」からお借りしました。ありがとうございます。
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