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福岡市の戦後都市計画を当事者から初めて伺った時の話。

アカウントを作成したのはいいものの、noteのしくみをきちんと理解していなかったために、しばらく放置していました。以前に更新していたブログの趣旨は仕事の日記のようなものでしたが、noteでも趣旨は大きく変えないつもりです。今回は以前のブログの中でも、思い入れのある記事を一つ紹介したいと思います。

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2016.01.20

※note用に編集も試みましたが、当時の内容のまま掲載します。

京都造形芸術大学客員教授の井口勝文さんにお誘い頂き、1月16日にJUDIの公開インタビューに参加してきた。「歩行者空間による中心市街地の構成」をテーマに各地域の歩行者空間の整備に携わる専門家にインタビューを行うプロジェクトで、今回は福岡市。

60年代後半から福岡の都市計画から中心市街地開発に携わってこられた元 環境開発研究所の梅本正紀氏を主役に、現在の取り組み事例としてWe Love Tenjin協議会からLOCAL&DESIGNの福田忠明氏と福岡アーバンラボラトリーの榎本拓真氏、博多まちづくり推進委員会からダイスプロジェクトの橋爪大輔氏のお話伺うことができた。

一人の住民、一人のアーバンデザイナーとして近現代における福岡の都市計画にはもちろん興味があるが、その歴史はアーカイブされておらず、携わった方々の匿名性が結果的に強い印象を受ける。福岡市の目指す都市計画の方向性に不明確で具体性の無い印象を受け、業界を通して共有できていないイメージがあった。そのような上で今回梅本氏のお話を伺えたことはとても貴重であり、個人的趣味思考を満たしてくれる有意義なものだった。

1966年の福岡市総合計画では工業都市を目標とし、博多湾沿岸沿いのほとんどは大規模な埋め立て計画地となっている(実際の都市計画図を見るとそれは想像を越えるものである)。
当時、九州大学の学生だった梅本氏は丹下健三の「東京計画1960」の影響から、市民生活に寄り添わない総合計画に危機感を覚え、浅田孝に人工地盤の指導を受けつつ、研究室で計画案をまとめたそうだ。
全国的に工業地帯や幹線道路を走る自動車からの公害問題が顕在化し、1971年の福岡市総合計画では生活基盤の整備・道路環境の向上・都市部再開発においては「機能的で美観にみちた人間性豊かな都心作り」が推進された。戦後の工業を中心とした産業から、オイルショックを経て情報化の時代に対応した産業の転換が全国的に進んだ事で、71年の総合計画の方向性はさらに具体化、推進され、その後の総合計画に反映されていったようだ。
環境開発研究所に所属する梅本氏は、福岡市総合計画の立案、天神の南北、東西軸から最近ではエルガーラのパサージュ広場まで、天神や博多の中心市街地の道路整備計画に携わってこられたそう。70年代以降の福岡の都市計画を支えてきた重要人物の御一人だ。

今回の公開インタビューの大きなテーマは、産業革命以降の課題に対して、現代ではヨーロッパは脱車社会を進め「歩車共存」に、日本では自動車社会の技術的更新により「歩車分離」とそれぞれ対極的なアプローチを取った根拠を探ることのようだ。
公共空間である街路空間が市民に解放されない日本の現状に対して、「歩車分離」を選択した中でも梅本氏のレクチャーの資料からは、福岡市全体や中心市街地の全体像、街路空間を構成するマテリアルまで計画設計されていることが理解できる。
それらの作業の先に、市民に都市を解放し、充実した都市生活を送るためのあるべき街路空間を実現するためのアーバニズムの確立を目指していたと感じることができた。

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いかがでしたか?
以前はこのような記事をブログに投稿していました。設計仲間の内覧会や公開レクチャーなどに出掛けた際には、自分が、どのように捉え、理解しようとしたか、を確認する作業として文章化を習慣としていました。
「レポート:イベント」というマガジンを設けました。今回の記事のようなイベントレポートはこちらのマガジンにまとめていく予定です。

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