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プライドとか






承認欲求。



人間にはという認められたい、こう思われたいという欲が生まれつき備えられている。それは、誰しもが持っているものであり、生きていく上で必要なものだ、決して恥ずかしいものではない。

だからこそ重要になってくるのは「誰に」認めてもらいたいか、ということではないだろうか。


InstagramやTwitterなどのSNSの普及によって、「人からこう見られたい」という欲は日々発散できるようになったと感じる。オシャレだと思ってもらうため、いい感じのカフェに行き写真をアップしたり、など視覚で自分の印象を自分で選んだものを通し、人に見せることが可能になったことで、SNSという窓だけで覗かれれば「理想の自分」を生み出すことが簡単にできるようになった。そういう行為を「ブランディング」と呼んでいる人を良く目にするようにもなった。

ただ、私はそんなものは「ブランディング」でも何でもないと思っている。「ブランディング」とは恐らく、認められることだ。他人に望ましい印象を与えることはひとつの手段ではあるが、目的ではない。そもそも、インターネットに自分の望む印象を与えるために写真をアップするだけで、「ブランディング」ができていると考えていることすら、勘違い甚だしい見込みだとも思う。


それだけ「人から認められる」ということは難しく、あり得ないことなのだ。他人に認めらたいという欲は、承認欲求なんかに収まるものでは到底ない、遙かに上の強欲ではないだろうか。

強欲が悪いとは思わないし、むしろ大歓迎ではあるが、「なかなか実現されることのないことを求めている」ということを、認識すべきだとは思う。人から認められなくて不満に思っている人がもしいるなら、「自分はとんでもない強欲の持ち主」であることを自覚した方がいい。


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では、承認欲求は「誰に」認めてもらうことで満たされるかと言えば、自分である、とここでは言わせてもらう。自分自身を認めたい感情のことを、私は承認欲求と呼んでいる。自分のことを認めることは、他人に認められるよりとてもハードルが低く簡単なことだ、と私は感じている。唯一、障壁になるとすれば「プライド」くらいのものだからだ。その「プライド」を限りなく少なくしてくれるものこそが、日記なのである。

「プライド」と言うと、誇りのようなイメージを持っている方も多いかもしれないが、ほとんどのケースでの「プライド」は人間性でしかない。自分らしさに誇りを持っている、ということで「プライド」は誇りなのかも知れないが、その誇りとやらは必要なようで、案外不必要な気がしている。それは、耳にする「プライド」のほぼ全てが、いらない「プライド」であるからだ。


なぜか。それは「プライド」を設定するときは、「私のここだけは譲れない部分」という自分がブレないためのものにしているはずなのに、その言葉を使う時は「他人に自分のこだわりを強要する場面」ばかりであるからだ。

「おれのプライドが許さねえ」というセリフが「プライド」の定型的に使われることが多いが、そもそもこのセリフは破綻しているように感じる。なぜなら、言われた相手側も自分の「プライド」に従って動いているはずだからだ。そのセリフに返す言葉があるとすれば「こちらこそ、です」が妥当ではないだろうか。


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結局、「プライド」というものは価値観でしかなく、誰かにひけらかすものではない。何なら持ち合わせていない方がいい、とさえ思う。他人から自分の望む印象とは違う捉え方をされたときに、自分のなかの「プライド」を司る部分が反応してしまったら、その「プライド」はハリボテのジャンク品だ。今すぐに捨てた方がいい。なぜなら、価値観に他人の視線は干渉しないからだ。

価値観が変わることも、生きていれば必然的にあるが、それは他人に促されて起こることではない。自分の中で変えようとして変わるモノでもなく、きっと普段は触れられない自分の底辺から生まれた、内発的動機によってもたらされるものだ。こういう自分を認められなくなった時、言わば承認欲求が満たされなくなる時に、内発的動機は作用するのだろう。

その度に、人は今まで貫いてきたであろう「プライド」を容易く捨てることができる。我が子のように大切にしてきたそれを、地面に叩きつけ新しい「プライド」を手に入れることもあれば、セミのように脱皮して成長した「プライド」を再び手にすることもある。新たな「プライド」を手にすることができるようになるのは、考えが変わった自分を認められるようにならなければならない。価値観というもの恐らく、自分を自分で認められている状態でしか形成されないものなのだろう。


だからこそ、「プライド」に他人からこう思われたいというのが含まれているとしたら、恐らく間違いだ。私は「自分自身はこういう人間だと認めること」が、「プライド」であると信じているからだ。そのために最も不必要なもの、それは「他人にこう思われたい」という周りを巻き込んだ自己満足の感情だ。

偽の「プライド」とでも呼ぼうか、今自分がその手に持っている「プライド」を手放さない限り、誇りになるような揺るぎない「プライド」というものは一生手に入らない。自分はこういう人間だろうと見積もるのではなく、自分の底辺の部分に光を当てることが「プライド」を手に入れる旅の一歩目のスタートなのである。


背伸びしたところで、歩くのさえおぼつかないのが人間だ。地に足をついて歩かなければ、足元が揺らいでしまう。地に足をつけるためには、まず地面の確認から。今自分の足で立っているその自分という場所は、果たして本当に自分の底辺なのかどうか、そこを確認できるのは世界で一人だけ、あなただけなのだ。

そのために自分の底辺に意識を寄せ、身を置かなければならない。その底辺まで降りるための梯子になってくれるのが、日記だと、私はいいたい。自分のためだけに自分の輪郭をなぞり、線を引くということは、他人の視線を気にせず、自分の弱さと向き合い、仲良くすることだ。それが、まさしく自己承認ってことではないのだろうか。

毎日同じようなミスをしてしまうのも、誰かの顔色を伺ってしまうのも、言いたいことが言えないのも、全部自分自身であり、あなただ。弱さこそが、あなた自身なのだ。そんな自分は受け入れられないと、心のどこかで「プライド」めいたものが、もしあなたの中でうずいているとするなら、それは「プライド」などではない。ただの虚勢だ。そんな去勢された「プライド」なんて丸めてポイだ、見栄が「プライド」だなんて、これ以上空しいことはないだろう。



「プライド」というものは、キムタクが主演だったドラマの影響でカッコついたようなものとしてのイメージが強いが、そもそもカッコいいものではない。「プライド」というものは醜い。見ていられない。それでも「プライド」はダサくてなんぼである。

そんなダサい自分を、自分自身として受け入れられるようになることで、見栄を張っていた時より、間違いなく強くなれる。どう転んだって、自分自身はダサいのだ、それを受け入れられている方が生きやすい。どう転んだって、自分自身はできないのだ、いちいち落ち込む必要もなくなる。そうやってできなかったり、ダサかったりする自分に余裕を持てるようになることが、強さということなのではないだろうか。


だから書くべきなのだ、日記を。自分の弱さを誰にも見られない媒体に、誰の目を気にすることなく思ったことをひたむきに、毎日書く。誰にでもできることだから続ける価値があるのだ。誰でもできることは、今すぐ始められるからこそ、なかなかキッカケが生まれてこないものだ。ましてや、続ける理由も湧いてこない。「誰にでもできること続ける市場」は、実は案外ニッチなのだ。

そして、自分のことを自分の目だけで見ることは、何かしらで人間と関わる日常では、ほぼ不可能なことだと思う。その時間は自分で作らなきゃ手に入れることはできない。弱い自分なんて見たくもないし、よくできた忘却という人間の機能によって、頭に残らないようにすらなっている。弱さや失敗を忘れないというのは、正直才能だ。意識し続けなきゃ忘れてしまう、弱い自分への執着があるからこそ、為せることだからだ。


「やればできる子、なんていない。迷信よ。
 あなたたちはね、やらなきゃできない子なの」


これは、「ゆとりですがなにか」に出てくるセリフだが、今回言いたかったことは、まさしくこれだと思う。自分を認めることができている人間はきっと、まだまだ少ない。自分はこんなもんじゃないと思っている人が大概だ、しかし自分はこんなもんと見積もったラインを越えられる人は、ほとんどいない。

結局、身の丈を知らないと、何をすべきかすら自分では決められず、誤った見積もりのまま、そこに自分を置こうとする。しかし、冷蔵庫や洗濯機に搬入可能サイズがあるように、自分自身への搬入可能サイズもあるのだ。それを知らないと、いつまでも自分自身をあるべきところに設置ができず、目の前に置き去りのまんまになってしまう。その様は可能性を捨ててないように見えて、実は他の可能性も手に入れられることが出来ない状態と言えるだろう。

自己承認は、自分を見下すことではなく、自分自身の解像度を上げることであり、それこそ自分のより現実味のある可能性を捉えることにつながるんじゃないだろうか。

日記に書いてある文字たちを見て、最初は恥ずかしくなるだろう。見たくなくなるだろう。それでもその先で、そんなにダサい自分が愛おしさを覚えてきたとしたら、それこそが、あなたの弱さが「プライド」になった瞬間だ。そこで初めて、自分自身に電源を入れることができ、「プライド」や「価値観」がうまく機能することができるだろう。



可能性は、少ないに越したことはない。何者にもなれないからこそ、自分は何になるべきか、なりたいか、よりクリアに見えるようになると、そう思っている。


自由は不自由だ、選択肢が多すぎて選べない、選べなきゃ何もできない。自由こそ、もしかしたら凡人の最大の敵なのかも知れない。





私たちは「やらなきゃできない」人間なのだから。





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