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【日本史】江戸時代、吉原遊廓内のラブホテル!?「裏茶屋」とは

みなさま。
吉原という色街にラブホテルがあったのはご存知でしょうか。


「遊廓にラブホテル!?」
「え?そういう街なのに必要なの?」

って感じですが
存在していたんですよ~~。

今回は吉原の区画内にあった
ラブホテル「裏茶屋」について紹介します!


◎出会茶屋とは

江戸の男女の密会場所は出会茶屋(であいぢゃや)と呼ばれ、現代のラブホテルに相当する。


江戸の各地にあり、神社仏閣の門前などに多かったが、とくに上野の不忍池周辺に密集していた。


奇怪に思えるかもしれないが、この出会茶屋は吉原遊廓内にも存在していたのだ。


◎裏茶屋

出会茶屋は吉原区画内にも存在し、
それを裏茶屋(うらぢゃや)と呼んだ。

なぜ吉原という色街にラブホテルが必要だったのか・・・不必要にも思える。


なぜ吉原に裏茶屋があったのか?

裏茶屋吉原遊廓関係者御用達の密会場所であり、遊女は吉原の外に出ることはできないため、裏茶屋が必要であった。

引手茶屋(ひきてちゃや)や船宿の若い者、幇間(ほうかん)など、総じて妓楼の関係者は客として堂々と登楼するわけにはいかない。

そのため、裏茶屋で遊女と密会をする必要があったのだ。

廓の若い者(店で働いている男)と遊女が情を通じることもあったとか・・・

また、吉原の芸者は客の男と関係を持つことを禁止されていたため、人目を避けて裏茶屋を利用したのである。

引手茶屋:客を遊女屋に案内するお店
船宿:船で吉原に通う客を送迎する家のこと(遊廓へ行くのに船を使うことがあった)
幇間:宴会の盛り上げ役。男芸者、太鼓持ち。



どのくらい裏茶屋があったの?

式亭馬琴『式亭雑記』(文化8~9年)を確認すると[1]

揚屋町うら茶や  四軒
角町うら茶や   四軒
京町二丁うら茶や 一軒

式亭馬琴『式亭雑記』

と記載されており、合わせて9軒の裏茶屋が吉原区画内にあった。
(揚屋町とか角町は吉原内の住所的なものです)

正直これが多いのか少ないのかわからない。


が、吉原という色街なだけに、多くの忍ぶ恋があったことは想像できる。


◎裏茶屋の目印

裏茶屋の目印は、桐屋という行燈だったようだ。

松亭金水  歌川国直 歌川芳藤『両個女児郭花笠 4編 三編中』(1836年) 国立国会図書館デジタルコレクション


冒頭にこんなようなことが書かれていますね。

路地の入口桐屋という行燈をかけたるは、これ裏茶屋の眼印にて、奥をのぞけば門口にも、同じさまなる行燈あり。

松亭金水  歌川国直 歌川芳藤『両個女児郭花笠 4編 三編中』(1836年) 国立国会図書館デジタルコレクション

これがその裏茶屋。
裏茶屋の目印は「桐屋」と書かれている行燈で、奥をのぞけば門口にも、同じ行燈がかかっていたようだ。

大きく「裏茶屋ココ!!!」なんて書けませんからね。
男女の密会場所ですから。

粋な計らいとでもいいましょうかね。


今回は男女の密会場所、吉原内のラブホテル「裏茶屋」について紹介しました。

吉原という色街だけに、色事が多い。
吉原に裏茶屋があったのは、それだけの需要があったわけで、遊廓だからこその人目を忍んだ恋も多く存在していたということですね。


今日はこの辺で〜。

以上。


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[1]国書刊行会『続燕石十種 第1』(国書刊行会、1908年)73頁 国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献


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母がバツ2の女子大学院生。瑠奈
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