与えているようで実は、もらってばかりなのかもしれない
ついこの前まで満開だった梅の花がもう散り始め、代わりに淡いピンクの桜の蕾が花開き始めている。
三寒四温とはよく言ったもので、この時期、三日寒い日が続いても四日は暖かく、そんな風にして少しずつ春になっていく。
一年前の今ごろ、まだ寝返りもできずにふにゃふにゃと頼りなかった次女も、今では何やかんや喋りながらそこらじゅうを走り回っている。
些細なことで泣き、笑い、怒り、その瞬間瞬間の感情を全身全霊でぶつけてくる。
私がどんなに変わり映えのない日々を送っていても、社会情勢がどんなに混乱していても、季節は必ず前へ進んでゆくし、子どもはどんどん成長してゆく。
その紛れもない事実が与えてくれる安心たるや。
私にとってそれは、決して小さなことではない。
好奇心の赴くままにちょろちょろと危なっかしく動き回る一歳児を何とか抱き上げて、咲き始めた桜の花と一緒にスマートフォンのカメラで写真を撮った。
あいにく彼女は桜にはあまり興味はないようだったけれど。(スマホには大いに興味あり)
あまりにも不確かなことの多い世の中だから、確かなことが愛おしいのかもしれない。
そして、その確かなことには見向きもせず、身体いっぱい心いっぱいで"今、ここ、自分"を生きている小さな娘を見つめながら、羨ましいような、誇らしいような、心の奥の方がきゅっと掴まれるような、温かい気持ちになった。
なんだかんだ言っても、子育ては結局、与えているようで実は、もらってばかりなのかもしれないな、と思った。