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人災は怨める。天災は諦める。

人間は文明を手に入れた代償として、人災で苦しむようになったのではないか?ということを書きたいと思います。

北海道で暮らしていると、自然があまりに大きな力を持っているので「諦める」という感覚が身に付く気がします。
例えば、山菜を採りに山に入ってヒグマと遭遇して殺されてしまうこともあれば、大雪で家から出られない日もある。自然に文句を言っても仕方がないので「諦め」がないと北国では生きていけないのです。

だけど、東京のような大都会に暮らすと、迷惑をかけてくるものが人だったり、台風で倒れた電信柱の下敷きになったとしても、電信柱を台風で倒れないように作らなかった会社が悪いという考えになる。都会に住めば住むほど、人間は加害者が自然という諦める存在ではなく、人が加害者となるから、被害に遭うと余計に苦しむと思うのです。

昔、あるドキュメンタリー番組を私が中学生か高校生くらいの頃に観た時に感じたことが、北海道に暮らすようになってからも、感覚的にわかるなぁと思うものがあります。その番組は、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災で、息子さんを亡くした母親が、高速道路の会社に訴訟をしているというものでした。

阪神・淡路大震災では、高速道路が倒れました。高速道路を走行中の車に乗っていた息子さんがそれによって亡くなったというもので、震災とはいえ、高速道路という人間が建てたものが倒れなければ、息子さんは死ななかったのだから、母親は高速道路の会社に訴訟をしていたのです。

震災で6400人もの人が亡くなったのだから、訴訟するのはおかしい!息子の死で金儲けするな!など、その母親には、心ない誹謗中傷が寄せられていたことも報じられていました。
でも、私は、この母親は、お金がほしいわけじゃなく、息子さんが亡くなった「納得できる答え」がほしくて苦しんでいるのだろうなと思ったのです。

息子さんが、高速道路ではなく、家の中にいて、倒壊した家屋の下敷きになって亡くなったなど、誰にも防ぎようがなかった「自然災害」だけだったら、「仕方がなかった」と、どこかで気持ちに納得がいきやすい。でも、自然災害に、人災が何%かでも入っているケースは、遺族は納得がいかず、苦しみが大きくなるのだと思いました。
加害者が「自然」だと人は「人」のせいにできない。でも、加害者が100%「自然」だと、「諦め」や「切り替え」が早いんだと思います。つまり、都市化(文明の発展)とともに、人類は災害が起きても、心の立ち直りが遅くなっているのだと思います。

※PTSDやトラウマ、虐待の後遺症(複雑性PTSD)や解離性同一性障害などについては、以下の書籍に詳しくまとめてあります。精神科医の和田秀樹先生の監修・対談付き。


虐待の被害当事者として、社会に虐待問題がなぜ起きるのか?また、大人になって虐待の後遺症(複雑性PTSD、解離性同一性障害、愛着障害など多数の精神障害)に苦しむ当事者が多い実態を世の中に啓発していきます!活動資金として、サポートして頂ければありがたいです!!