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ひとつ、noteのことがわかったかもしれない。


わたしはnoteの真実にひとつ気づいたかもしれない。けれど真実は人の数だけあるというから、これはわたしにとっての真実であって、あなたにとっては違うかもしれない。だけどちょっと、書いてみたい。

このnoteをはじめてまだ一年弱だが、書いた記事はそれなりに増えてきた。

記事をアップするとき、「さてこの記事は受け入れられるだろうか」といつも不安になる。適当に書いた記事なんてないし、あきらめた記事もない。他者評価に気を取られ過ぎずに、粛々と書いて、堂々と公開していけばよいだけとは思う。だけどわたしはちっちゃい人間。「もしかしたら、全然読んでもらえないかもなぁ」と弱気になって心臓がどくどくすることが、いまもあったりする。

気合を入れていつも以上に思いを込めて書いた渾身の記事が、たくさん読んでもらえてたくさんスキが付くとは限らない。時間をかけず、調子よくさらっとかけた記事が、まさかの人気記事に躍り出たりすることもある。わからないもんだなあ、と首を傾げたり傾げなかったりしながら、またせっせと次の記事を書いていくしかないのかもしれないな。

そんなことを考えていたら。あるとき、あることに気が付いた。コメントだ。

時間をかけてエネルギーを使って思いを込めて書いた記事は、数字としてはあまり伸びなくても、こちら側が胸を打たれてしまうようなコメントをいただくことがとても多い。たしかにわたしの言葉が届いたのだと手に取るようにわかる、とっても熱のあるコメント。そもそもコメントはいつでもひと言でもうれしいけれど、その中でも、ちょっとこちらがのけぞってしまうような、そこまで感じ取ってくださるんですか!?と思ってしまうようなコメント。

思いを込めて書いた記事は、コメントがたくさんつきます!熱いコメントがきます!と言いたいのではない。強い思いを込めて書いた記事は、誰かひとりにあるいは数人の心に、とっても響いている可能性が高いのではないかと言いたい。それはコメント欄に表れるかもしれないし、まあ表れない場合もあるだろう。世の中コメントする人ばかりじゃないし。でも、熱をそのまま受け取ってくれる人が、このnoteという街のどこかには、たしかに存在するのだと思う。ときには、書いた以上に受け取ってくださる方が。それは公開してすぐの場合もあれば、一カ月後、ときには一年後になることもあるんだろうけど。noteはそういう可能性がある街、それを信じてよい街なんじゃないだろうか。

こんなことを書きながら、別に、書いたものが誰かの心を揺さぶるものでなくてもいいと思っている。何でもないそよ風みたいなさざ波みたいな、ただここにある文章を書きたいと思っている日も多い。最近は結構そう。でも、たまには、たまには誰かにぶっ刺さるような記事も書けたらいいかなと思う。そのためにはわたしが。熱量をかけて書けばよいのだな。わかったぞ。そうだと、信じてみたい。


おわり

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