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自分に腹が立ちます。

先日夜ご飯を食べていると、

「大人ってなんでも好きなことしていいんでしょ?」

と甥っ子が話しかけてきました。


おいおい、誰だ無責任なことを教えたのは、と思いながら、

「俺がこのぶどうを好きなだけ食べたら、どうなる?あんたはぶどう食べられんごとなるやろう?この梨だって、俺が好きやけんて全部食べてしもたら、あんた、梨食べられんごとなるやろもん。悲しかろう?確かに、大人は子供よりかは好きなことを誰にも注意されんで、割と自由に出来る。でもな、自分の行動が自分以外の他の人を悲しませることもある。確かに自分の好きなことをしたい気持ちもいっぱいあるけど、周りにおる人がどういう気持ちになるのか、そういうところに目がいくものを、大人って言うんやぞ。わかるか?」

と、つい間違えてもらっちゃいかんと、熱が入ってしまいました。それを聞いた小学校1年生の甥っ子は、


「おじさんの話聞いてたら、眠くなってきた」


と一言だけ言い残して、寝室へと向かって行きました。



親になったことはまだ一度もありませんけれども、5人の甥や姪と関わりながら偉そうに色々教えてみたり、叱ったり、と色々接していると、親の苦労のほんの一部しか、いや、ほんの一部も分かっていないのでしょうが、子育てって大変やなあと思うと同時に、この私がどれほどの人に声をかけられ育ててもらってきたんだろうか、と思うことがあります。


しかも、ほぼ聞き流して、無視して、むしろ見下すように俺はこう思うんだと我儘に生きてきたような気がします。人の話を聞かないくせに、「俺の話を聞け」と聞いてもらえないもどかしさに腹を立て喚き散らした自分もおりました。


この私に、如来様は一体どれほどはたらき続けてくださっていたのでしょうか。「まかせてくれよ、あなたは仏の子ですよ」と私のいのちを案じ、このいのち本当に向かっていくべき場所をお示し続けてくださっていたのにも関わらず、長い間色んないのちをへめぐり、背き続けていた私がいたのだと知らされます。


「俺が正しいのだ」と思っている間は、全くその声は耳に入らないのだけれども、如来様のみのりにお出遇いをして、ようやくそういう自分の姿に目が向くようになりました。真実に背き続けてきた私に「間違わさんぞ、お前はお浄土の仏になるいのちを生きているんだよ」と如来様が絶えずはたらき通していてくださったからこそ、ようやく自分の姿がさらされました。

しかも、お出遇いをさせてもらいながらも間違え続ける私に、何が真実で、何が真実でないのかということをお念仏となり、絶えず喚びかけ続けてくださる如来様です。


間違え続ける私だからこそ、お念仏に真実を聞き、お経に尋ね続けていかねばなりません。


仏の遊履したまふところの国邑・丘聚、化を蒙らざるはなし。天下和順し日月清明なり。風雨時をもつてし、災厲起らず、国豊かに民安くして、兵戈用ゐることなし。

『仏説無量寿経』


仏様がめぐり歩かれる国や村、集落は、みなそのご教化を受け、仏法のはたらきによって戦争は起きないのだと、おっしゃいます。

仏教を大切に生きるものとして、やはり非戦を徹底して訴えるべきだと思うのです。


日本は79年前戦争に敗北し、その後、「戦後」と言い続けることができています。確かに日本が他の国に攻め込まれることも、攻め込むこともなかった。けれども、辛うじて戦場とならなかっただけで、79年の間世界各地で起きた戦争と日本は決して無関係ではありませんでした。


いわゆる「核の傘」によって守られているという日本(私はあまりそうは思いませんが)に住みながら、非戦を訴えるというのは矛盾しているように見えるのかもしれませんが、現状を静観するのではなく、何が本当に目指すべき世界なのかをはっきり言い続けることが大事なのだと思うのです。


目指すべき世界、あり方を語ると、「それは菩薩のすること」、「それはお浄土でのこと」と言い、まるでお経に書いてあることがただの理想のように扱われてしまうことがあります。確かに親鸞聖人が臨終に至るまで凡夫である私から無明煩悩がなくなることはないのだとおっしゃるように、ご法義にお出遇いをさせてもらいながらも自分自身はこの世のいのちを生きる限り凡夫でしかない。だからこそ、阿弥陀様の法蔵菩薩の名の下の御修行があり、今この私に救いが届いています。しかし、それでも、おみのりをお聞かせに預かる身であるからこそ、何が本当に正しいことで、そうでない私を恥ずかしいと思うならば恥ずかしくないように振る舞おうとすべきでしょう。


梯實圓和上は『平等への視座』という本の中で、私の行動の原型について親鸞聖人は法蔵菩薩のご修行の上に仰がれていたのだとおっしゃり、続けて「菩薩の真似事を嗤う人が、悪魔の真似事をするようになる」とお教えくださいます。


上述の「兵戈無用」はお釈迦さまから弥勒菩薩への教誡として説かれてありますが、そのお示しはやがてお覚りを開いてくださる菩薩様と等しいと示される正定聚の信心の行人、すなわちおみのりをお聞かせにあずかる私を含めたすべてのへのお導きであるはず、と捉えるのは過ぎたことでしょうか。


そう考えれば、現実不可能と言われようと兵戈無用をお釈迦さまのお導きとして、菩薩の真似事と言われようとも、努めなくてはなりません。


世界は進んだ、科学は進んだと言われる現代ですら、今まさに、ジェノサイド、集団殺戮が起きています。世界はまた、ジェノサイドを許してしまっています。今、この私に何が出来るのか、いつもいつも無力感に苛まれます。もどかしさに腹が立ちます。お互いに、また、考えて行きましょう。

なんまんだ

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