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願われているいのち

皆様、こんばんは。
今週は陰山です。

「あなたのいのちは願われている」

浄土真宗のお寺の掲示板で、そんな言葉を見たことがありませんか?
昔の私はそんなものになーんにも興味をしめしませんでしたし、
「いや、だから何?」って感じでした。

でも、今は何となく「如来様に願われているいのち」ということが、生きる上での大切なことになりつつあります。

「仏教って何の役に立つんですか?」
多くの人が問いを持つことでしょうし、何て答えるのがいいのか時折考えることがあります。
その問の背景には「役に立つようには見えない。」「今このままで生きていられるんだから、必要ではない」というような思いがありそうな気がしますし、仏教を自分の外に見ているのかな、とも思います。

縣 秀彦さんという方の『ヒトはなぜ宇宙に魅かれるのか』という本を読んでいます。
天文学は音楽や算術などと共に五千年以上の歴史を持つ古い学問です。
日本の歴史では陰陽師も天文学を基盤としていると聞いたことがあります。

そんな天文学も、「何の役に立つんですか?」とよく聞かれるそうです。
「自分の存在理由や立ち位置が分からないことほど不安なことはなく、自分の存在理由を知り、生きる目的を知れば、私達の生き方は大きく変わる可能性がある。宇宙を知ると、それが垣間見えることがある。」とおっしゃられていました。

明確に存在理由などを示してくださっている訳ではありませんが、縣さんは自ら命を断とうと崖の上に登って身を投げる直前、宙を見上げ上ってきたしし座を見て、その雄大さに「くよくよしていても仕方がない」とまた天文学者への道を歩んでいかれたそうです。

仏教も似ている気がしますね。
はるかに大きなものと出遇い、己の小ささを知るという面があるように思います。
縣さんが宙を見上げて宇宙を感じた時、天文が学問上の話ではなく、自分を包む大きな存在として感じられたのではないでしょうか。


「何の役に立つのか。」という問いの起こりの、「役に立つ」といった時、その主体は私です。
私にとって役に立つか立たないか。
「仏教を聞けば心が落ち着きますよ。」と言われても、心が落ち着いている時に聞けば、今の私には役に立たないと思うでしょうし、刺激を求めている人には落ち着きよりもさらに心踊るものが欲しいでしょうし、それでは仏教は役に立つ人と役に立たない人が出てきます。

仏教というのはそんなことではないように思います。
んーなんて言えばいいのか…
そんなことを考えている時に、本願寺のHPにある「読むお坊さんの法話」というコーナーで、藤間幹夫さんという方がこんなことを書いてくださっているのを見つけました。


報恩講の後に、ある御門徒さんのお宅に訪問して、奥さんと「先日のご講師の話ありがたかったですねー。」と話をしていると、旦那さんから「参れと言いますが、みんな忙しいんですよ。よっぽど役に立つ話なんでしょうね。そうじゃなきゃ困ります。」とおっしゃられたそうです。短い時間で上手く返すことが出来ず、少し残念な気持ちで帰路につかれた。その後考えていると、その「役に立つ」という言葉を使って、「仏教は役に立つんですよー。役に立つとか立たないという私たちのものさし(価値観)がブッ壊れるのに役立つんですよー」とでも説明すればよかったかなと思ったそうです。


あっ、そうそう!その感じです!


また、「仏教は役に立つか立たないか」と言った時、仏教は私より小さいものとして見ているのではないのか。ともおっしゃっておりました。


掲示板を見て、「いや、だから何?」と思っていた私が正にそれでしょう。

私を主体とし、全ては私(私の欲)を満たすためにあるものである。そんな見方になっていたように思います。
いや、今でも、命終えるまで、その見方から決して抜け出すことは出来ないのだけれども、如来様から願われているいのちであるとお聞かせ頂いた所に、私を中心とした世界が如来様が中心となった世界へと開かれていくんだと思います。

このブログでもなんども出てきている、いのちの意味と方向。
それを聞かせて頂くことが大切であると思います。

如来様に願われているいのちを生きている。
無限の大きさのものに私のいのちが包み込まれている。
そんな温かな世界を知らせてくださるのが、如来様の願いであり仏教のように思います。


称名

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