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感覚派が戦術家に負けた話

私は幼い頃から将棋が強かった。父親の影響で保育園の頃から将棋を指すことを覚えた。『くもんのスタディ将棋』は革命的で、駒の動きが書いてあるから幼い私もすぐにルールを覚えることができた。

くもんのスタディ将棋

幼い頃から将棋を指すことを覚えたので、父親や姉と将棋することもあったし、友達ともよく将棋を指した。小学校低学年の時は学童に放課後は通っていたのだが、そこでよく友達と将棋したことを覚えている。

小学校高学年になると学童には行かなくなったものの、昼休みなどに友達と将棋をする日もあった。もっぱら私は休み時間になるとグラウンドに駆け出して行ってサッカーや野球をするスポーツ少年だったのだが、雨でグラウンドが使えない時はよく教室でトランプや将棋などをして盛り上がったことを覚えている。

保育園の頃から将棋を指していた私は基本的に友達と勝負しても負けることはなかった。唯一負ける相手と言えば父親と将棋を指した時だったのだが、小学校高学年になる頃には父親と対戦して何回か勝つようになるくらいまでに成長した。

なぜ私が友達と対戦して勝てるのか。

当然、父親の影響で言わば将棋の"英才教育"を受けていたからかもしれない。しかし、それよりも私は将棋の勝ち方を長い経験から得ているため、ただルールを知っているそんじゃそこらの相手には負けない訳だ。

何となく「桂馬をここに置いておくと強い」、「金はここに置いておくと守りが固くなる」、「今攻撃を仕掛けると勝算が高い」などが多くの経験値から蓄積されている。つまり感覚的に「こうなった時にはこういう動きをすると優位になる」ということがわかっているのだ。

現れた強敵

小学校高学年のある時期。雨だったため昼休みに親友と将棋を指していた。親友とは初めて将棋を指したのだが、親友をボコボコにして圧倒的な勝利だった。その親友は何とも変わってるやつで理系で研究者気質のある人間だ。当時は相対性理論の本を片手に通学してくるような奴だった。

そして、私と親友が初めて将棋を指したその日から彼の中で将棋熱が燃え上がった。翌日には将棋の定跡がまとめられている本を買ってきていた。親友との2回目の対局した際には私が勝ちはしたものの、前回ほどの差はなくギリギリ勝利した。

彼と対局する度に自分との差が埋まっていくのが明らかだった。彼は定跡の本で様々なプロ棋士のケーススタディや戦法などを頭の中に蓄積させている一方で、私は数年間の間に自分が対局することで得た素人の感覚的なケーススタディしか持っていない。彼が定跡を学べば学ぶほど何も学んでいない私の経験という貯金が消えていった。

そしてある日、私は親友に負ける時がきた。駒を動かしたり、新たな手を打てば打つほど自分が不利になっていく感覚があり、何をしても勝てないような感覚に陥った。感覚派が戦術家に負けた瞬間だった。

サッカーの定跡

様々な戦術が編み出され、サッカーの体系化がどんどん進む現代サッカーにおいて、私と親友との対局のようなケースが増えていくのではないかと思っている。

20年指導してきた指導者がたった数年の指導歴の若造に手も足も出せなくなる時がくるはずだ。『経験』というのは貯金になる。同じ知識レベルの指導者が対戦した時に采配に差が出るのは『経験』からくる貯金だろう。しかし、それはあくまで貯金に過ぎず、知識レベルの差が開けば開くほど『経験』は意味をなさなくなってくる。

例えば、将棋では『中飛車』に対して中央を金や銀で固めて受けなければ中央から守りが崩壊する。サッカーでも3-2-5でボール保持する相手に対して4-4-2でプレスをかけてもハマらない。SHをワイドCBに当てて、SBがスライドするというような対応もせずに4-4-2のハイプレスをかけ続けるのは無謀とも言える。これはサッカーにおける定跡の1つになっているのだが、この定跡を知らない指導者が、4-4-2で選手たちをハイプレスをかけて見事に失敗するなんてことは意外と珍しくはない。

逆に相手が2枚でプレスをかけているのに、2CBの同数で対抗して、中盤のサポートも特になくハメられて失点という形もよく見られる。構造的に上手くいってないものを選手の技術や集中力のせいに怒鳴る指導者も少なくない。

そういった指導者はそもそも何で上手くいかないかを理解していないから、「選手たちの運動量が足りない」、「球際で戦えていない」、「やる気がない」といった論外な視点でしか試合を捉えることができなくなる。本来は「何で同じ人数にも関わらずいたる局面で数的優位を作られてしまうのか?」、「何で球際で戦う局面を作れないのか?」と言った方向に考え、そこから『サッカーの定跡』を理解する工程に入っていかなければならないのだ。

『経験』×『定跡』

ただ、勘違いしてほしくないのは『経験』は必ず武器になるということだ。先程も言ったように同じサッカーの理解度であったり、試合が競っている状況において『経験』は紛れもないアドバンテージになる。これまでの様々なケーススタディから「こういう試合ではこういう采配をした方がいい」という感覚で相手を出し抜くことができるからだ。

私は指導歴10年も満たない若造指導者だ。『経験』という武器に頼れないので、『サッカーの定跡』で勝負をしている段階だ。そして今後のキャリアで『経験』というアドバンテージを手に入れていきたいと思っている。しかしながら、日々サッカーは進化し続けているため、定跡のアップデートを怠ることはできない。感覚だけで親友と対戦して負けたあの日の私のように『経験』だけで戦う指導者は通用しなくなってくる。常に定跡のアップデートを行い、定跡をどれだけ理解しておくことができるかは現代サッカーにおける指導者に求めらている。

将棋はポジショナルプレーそのもの

サッカーも将棋もゴールや王を奪うという点では非常にゲーム性が似ている。盤面上に様々なキャラクターがいて、それらを駆使して相手をどう攻略していくかという面でも深い共通点がある。

現代サッカーにおいて『ポジショナルプレー』という言葉を聞かない日はなくなった。数的優位、配置的優位(位置的優位)、質的優位で構成されるポジショナルプレーは将棋の盤面を見れば分かりやすい。相手の駒よりも自分の駒が盤面に多ければ優位に立てる可能性が高い。『飛車』に対して『角』が戦おうと思えば斜めから攻めるのが鉄則だ。『歩』よりも『と金』の方が圧倒的に力があるのは言うまでもない。将棋はサッカーにおけるポジショナルプレーの要素が詰まっており、ポジショナルプレーそのものとも言える。

サッカーと将棋が大きく違う点というところではサッカーは人がプレーをするため予測不可能な事象が起きるのに対して、将棋は駒の動き方が決まっていてその動きに寸分の狂いもない。将棋はその日のコンディションや天候といった外的要素も受けない。1つの駒が正確に同じ動き、働きができるのに対して、人がプレーするサッカーは技術、フィジカル、戦術、心理、社会的な側面から様々な変動性がある。だからこそ、サッカーは定跡だけ積んでおけば勝てるという保証はない。どうやってチームをマネジメントするか、どうやってチームを試合に向かわせるかなど指導者のキャラクターや人柄も問われる。この辺は指導者のパーソナリティーであったり、マネジメント力やマンパワーなども大きく影響してくる。

将棋は盤面上の話を展開できるが、サッカーを盤面だけで語ることは机上の空論になってしまいがちだ。今一度、将棋から学べることとサッカー特有の変動性を理解して『サッカーの定跡』を頭の中に入れておきたい。そして、定跡が経験や指導者としての人間性と相互作用し始めた時に大きなパワーとなるはずだ。奢ることなく、謙虚に学ぶ姿勢を意識して現場に立ち続けていきたい。

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