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書評。物語はこんな宇宙#10: 三島由紀夫 「卒塔婆小町」

「近代能楽集」収録 卒塔婆小町 著三島由紀夫 新潮社

目を凝らしたところで美しさの源泉が見えない人であった。考えてみれば、その人が存在し、世界にその姿を曝け出しているなら、それは周知の美であり、私たちは、わざわざ理屈張った表現や解答を探さず、そっけなく一言で表現すればよかった。気にする必要などなかったのだ。しかし周囲の人間は、それを避けた。その美を語るという行為の中で自分を試されていると感じたのだ。そして、葛藤の末、あるものが、その美は「過去」にあるといい、失った何かを私たちは見ているといった。しかし、あるものには違った、それは「未来」だといった。そこにはいつか何かをもたらす誠実さがあるのだと。そうして、私たちは各々の意見を持ち寄りながら、死ぬことを今日も待っていた。

三島由紀夫は、戦後日本文学を代表する作家の1人であり、生前のノーベル文学賞の候補に複数回選ばれていたこともわかっている。そして、彼の死後から約50年が経過した現在でも日本や海外で作品は読まれ、研究され続けている。三島自身がモデルになったキャラクターが登場する作品さえ存在する。

また三島は、作家としてだけではなく、政治活動家としても広く知られている。三島は、政治団体を結成し、自衛隊に体験入隊し、最終的には自衛隊の市ヶ谷駐屯地を襲い、決起の演説に失敗後、自害し人生を閉じた。

三島は、見られること、そして振る舞うということに強烈に自覚的で、その感覚を彼自身の美学として体系化し、その上で死を選んだ人間であるように思える。学生運動が行われている時期に東京大学の学生と討論した映像も残っており、映画化もされているし、そもそも本人自身が映画に俳優として出演している。その作家に留まらない多面的な活動は、現代のわたしたちが一般の作家に持つイメージとは、大きく異なるように私は感じる。

そんな三島だが、文学という枠組みの中で小説以外に深く携わったジャンルがあり、それが戯曲だった。学習院時代から「花ざかりの森」など多くの小説を書いた三島だが、戯曲も学習院時代には執筆しており、一作目の戯曲「東の博士たち」を14歳の時点で書いている。その後も継続して戯曲を書き、歌舞伎の研究なども行い、俳優座で公演されたものの中には自分で演出をつけたものもあった。そして文壇の寵児に躍り出ることなった小説「仮面の告白」の次の年に発表されたのが、本作「近代能楽集」である。

本作は、三島が、能の演目の中から「現代化」(あとがきまま)に適すると判断した5作品を翻案したものを収録している。「翻案」という言葉は私たちに馴染みがあるようで馴染みがないが、今回の場合は今風でいう「リメイク」、つまりは、オリジナルの能版から戯曲版への現代改変と、とりあえずは受け取ってもらえばいいだろう。今回の「卒塔婆小町」も、14世紀の能の大成者である観阿弥が書いたオリジナルの作品を、戦後日本を舞台に改変したものである。

ここからは三島版のあらすじを述べる。

舞台は公園。5基のベンチでそれぞれカップルがいちゃついている。そこに通りかかったホームレスの老婆が、カップルにお構いなしにベンチに座り、彼らは逃げていく。その一部始終を見ていた若い詩人が老婆に文句をいう。要約すると、老婆や自分が座るとつまらないこのベンチも、カップルたちが座れば、思い出深い温かいベンチになる。老婆は座るなとのことだ。ひどいことを言う詩人だが、咳をしていて体調が悪そうだ。
老婆は負けじという。いちゃつくカップルも、所詮死んでいるだけ、酔っているだけの状態なのだと。かつて若い時に気分の揺れ動いていた自分のように。
詩人が、そんな老婆にからかうように生きがいを聞く。老婆は、こうして生きるのが生き甲斐であり、馬がただ駆けるように自分は生きるいう。
今は99歳の老婆も、80年前は深草少将という軍の高官にみそめられていた絶世の美女だったらしい。そして老婆は過去の自分を、詩人は深草少将を演じ出し、ストーリーが展開していく。(演じ出すと書いたが、いかようにも解釈はできると思う)

以上が三島の現代化した話の流れになる。戯曲を読んで思ったのは、とてもセリフのテンポがいいという点だ。五基のベンチという舞台の画面構成も映えるだろう。

私が内容に関して興味をもつのは、作品の何を変えなかったか、そして何を変えたかについてである。

私が思うに、元の作品から三島が変えなかった部分は、おそらくこの新旧の「卒塔婆小町」という作品をつらぬく本質であり、「近代化」されても変わらなかった部分である。そして変わった部分は、三島が「近代化」という意味において、そして三島の美意識において変更すると判断を下した部分であるに違いない。

この作品の実質的な登場人物は2人であり、老婆も詩人(原作は僧侶)の両者とも大きく変わっているが、ここでは小町と呼ばれる老婆の共通点と変更点に注目したい。

実質の主役であるこの老婆には、作品のテーマである「若さと老い」そしてそこからの「無常」がまとわりついているように思える。これは原作版でも同じである。

ただこの老婆が象徴する「若さと老い」というテーマがあるにも関わらず、おそらく両作品を観て観客がこの老婆に感じることになるのは、彼女のもつ内面の聡明さや生活を通して身につけた見識に対してではないだろうか。原作では、老いてなお僧侶に仏道を解き感心させるし、三島版でも詩人相手にその腕は衰えていない。小町とはそもそも小野小町であり、美人であるより先に一流の歌人であり知の人であったわけである。老婆が、賢者性を帯びているのは新旧に共通しているポイントである。

そして違う点である。原作版の小町は、僧侶と問答を経た後、ただ一人狂いだす。それが三島版は、詩人と老婆が共に演じ出す。一人で始まっていたものが、二人で始まるようになったのなら、当然結末は違うものになる。

原作は、往生とか仏教の説話のような話に最後つながる。言い換えると、話の構造のフレームとして仏教があって、落ち着くとこに落ち着く。しかし三島版の「近代」には、解決する優しい仏はもういないのである。そうなった世には、ただ生きようとする「近代人」としての小町がいるに違いない。

書評。「物語はこんな宇宙」のバックナンバーになります。よろしければぜひ。


(奇数回は海外文学、偶数回は日本文学です)

第1回 「結婚式のメンバー」(アメリカ)
第2回「朝の悲しみ」
第3回「侍女の物語」(カナダ)
第4回「冬への順応」
第5回「すべての、白いものたちの」(韓国)
第6回「太陽の塔」
第7回「タタール人の砂漠」(イタリア)
第8回「亜美ちゃんは美人」
第9回「ブルックリン」(アイルランド

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