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書評。物語はこんな宇宙#02: 清岡卓行 「朝の悲しみ」

アカシヤの大連より「朝の悲しみ」 著清岡卓行 講談社

人生の困難なある日、映画館に行き観客はほとんどいなかった。シネコンの大きな映画館ではなく、名画座で、なぜその時、映画を観に行ったかも思い出せない。いい映画だったと振り返ってみて今は思っている映画だが、思い出すのは映画それ自体ではなく、私が開始15分で泣いて、さらに終わるまでほぼ泣いていたことである。家族愛、故郷愛を取り扱った映画ではあるが、開始15分ではまだ導入の日常シーンの真っ最中である。子どもが家の前の通りで遊んでいる。ヨーロッパが舞台であるので、街の全てがレンガでできているように見えた。遠い異国の子どもが仲間たちとゲームをしている。序盤の筋を抑えたストーリー進行。しかし強く泣く理由を持たず私がただ泣いている、この奇妙な空間。

清岡卓行「アカシヤの大連」所収の「朝の悲しみ」の主人公は、数年前に妻を亡くし、朝に悲しみを感じる。夜に彼女の夢を見るのだ。病で妻は死んだが、夢の中では麦わら帽子をかぶり水着姿で、砂浜に向かおうと田舎の道路を渡ろうとしている。主人公は、彼女が美しいと感じている。悲しみを感じるが、生活は続くのであって、子どもも二人いる。料理はできるが家事は嫌いだ。しかしやれることはやっている。朝は悲しいが、夜になると興奮して大きな仕事をしようとか、夢物語を考え寝るが、案の定朝になると悲しい。小説の時代が戦後すぐなので、周りは再婚を進める。主人公は、こういう女がいるがと何人もひたすら並べエピソードを語るが、顔が気に食わないという。主人公は、この小説に出る全ての女性登場人物を必ず外見から述べ、評価する。昔の男はひどい、いや今の男もひどいと思ってしまうが、彼の述べる文体は、女をものとして鑑定するいやらしさというよりは、何か淡々と無機質な伽藍堂なのである。考えてみれば、心が傷ついているのなら優しい女性を求めるのであり、子どもが二人いる功利的な男なら家事が上手な女性を求めるのではないのか、理屈では解決できない。途中作中屈指の若くて外見のいい女性とデートをする。しかしちぐハグである。彼女のテンションがおかしくてデートが失敗したかのように記述するが、この淡々とした描写には真実がわからない。主人公が、なぜ美しさを求めるか、朝の悲しみは解消するべき問題なのか、戦後が舞台の小説なので、国家の敗戦も喪失のたとえで出てくる。そう、国家は敗戦しても再建されるが、人間はただ消えるのである。
私の少ない友人関係では一般化ができないが、大体我々は弱みを言いたがらず、弱みを言うときも冗談や皮肉といったさまざまなエッセンスで覆い隠す。シリアスなことほどシリアスに語るというのは危険なのである。そうして語られる寄る辺を失い、自己の内で処理される、すなわち悲しみは文学というフィクションで語られる。小説、歌、物語で我々は、弱みのかたまりであり、赤裸々である。この主人公は、側から見たら少し変わったインテリで、二児の父だが、同時に詩人なのである。


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