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書評。物語はこんな宇宙#07: ディーノ・ブッツァーティ 「タタール人の砂漠」

タタール人の砂漠 著ディーノ・ブッツァーティ 訳脇功 岩波書店

しかし悲しいもので、忙しいのにも暇なことにもこの体は耐えられなかった。体は、常に一定の圧力と壊れたハンドルの遊びのような逃げを、同時に必要としていた。だが悲しいことに、そのような複雑なものを乗りこなすほど、私はさして太古から進化していなかった。私もその意味では正しく人間だった。
起こりうる物事を考えるには、真摯さが必要なのは多くの人々が認めているだろう。しかし行き過ぎた狂気としなやかな諦念を身につけ、飼い慣らす術の方が、今思えば切に求められていた。

ディーノ・ブッツァーティは、1906年生まれのイタリアの作家である。彼の活動は幅が広く、童話も評論も書いており、絵も描く。彼が生きた時代は、ヨーロッパ情勢にとって激動の時代で、彼の幼少期には、第一次大戦が起こっている。ミラノ大学在学中には、2年間の兵役も経験している。その後、新聞記者になり、従軍記者としてエチオピアに向かい、現地海戦の記事を書き、その同時期に発表したのが本作「タタールの砂漠」である。

あらすじは、とてもシンプルである。士官学校を卒業した主人公が、国境付近の要塞に着任する。日々の任務や生活にトラブルはあるし、心の中には葛藤もある。主人公は、当初より砦から転任することを望むが、結局は大きな行動、決断を取れないまま年数だけを積み重ねていってしまう。後半は、直接読んでほしいので省略するが、概ね以上である。

日々が過ぎていくといっても、流石に何もないことはないだろうと思うに違いない。補足すると作品に敵国の兵士は、一応出てくるし、任務上のトラブルで人は死ぬが、戦闘は一切発生しない。言い換えると、主人公が戦闘を経験することはない。代わりに軍隊生活の描写は濃厚である。主人公を含め、この退屈な生活を少しでも変えるため、戦闘が起こることを少なからずの人が望んでいる。だが戦闘はない。

では戦争物ではないなら、軍隊という組織を扱う小説に入るのだろうか。現代には会社小説というものもある。主人公は、士官学校出の将校である。卒業して、いきなり部隊長の立場である。結構器用であり、基本的には仕事をこなせているし、同僚としゃべっていたりもする。上司とも仲が悪いわけではなく、軍隊組織と敵対しているわけでもない。ただ、逆に重用されてもいないし、組織を変える人材でもない。そして仕事物の型として扱うには、致命的な点があり、一貫して、この主人公は特に仕事に情熱を持っていない。そして成長もしない。

ちなみに軍隊ものにありがちな描写がこの小説にはない。ハリウッド映画とか戦後日本文学で見るようなボロボロにしごいてくる年上の軍曹はいない。正確には軍曹キャラはいるのだが、彼は何年も砦で同じ生活をしたせいで性格が少しひねくれているが、別に悪い人ではない。部隊が、砦の生活に飽き、規律が乱れて訓練が崩壊しているといった描写などもない。一般基準からすれば全員きちんと働いている。

戦闘が起き、勝ったり負けたり人が死ぬ。そうすればストーリーは進む。昔の神話のように英雄を讃えたりする方向に作品は向かうかもしれないし、人間の愚かさや批判に向かう反戦文学になるかもしれない。主人公も周囲のキャラもまさにその大イベントをただ望んでいる。彼らが戦闘を望むのは、参加することによって自分の人生に大きな意味を与え、自分を慰めるためである。

ただ世界には何も起こらないのだ。こんな固定的な世界なら、そうなると取り組むべきは、主人公の内面にあるのだろうか?主人公は、着任時より砦から転任したいといっている。そして主人公は、通算していくらでも砦から別の部隊に行き、街に戻るチャンスがあった。後半どうにもならなくはなっているが、それでも一貫して上官クラスは、若手将校はみんなそうなんだよと、理解とは違うかもしれないが、彼の話に聞く耳は持っていた。しかも究極的には、そもそも徴兵されたわけではないので辞める自由は彼にはあった。ならばこの作品に漂うこの幻想的無気力は、彼の自主性のなさが具現化したものなのだろうか。彼を元気にし、霧を払った先には、会社選びを間違えた若者に転職を急かすYoutbeで流れる広告の世界観が待っているのだろうか。わたしたちは、彼も決断したら解決したのにと、主人公を批判できるのだろうか。

しかし、きっと決断したところで、そうはならない。主人公は、休暇中に地元へ帰るが、もう居場所がないと感じている。実際は、周りの仲間もそんな風に思っていないだろうが、主人公はそう感じてしまう。そしてガールフレンドに会いにも行くが、もうすでに彼の心が死んでいる。心が死んだ人間は、感情がなくなるので、自分の行為を頭の中でただただ実況するが、まさに彼はそれである。このしっくり来ないというのは、軍隊経験のない私たちにもよくわかるものである。

ここまで救いのない文章を綴っている。換気のできない部屋のような空気が漂っている。結論は変わらないというものだ。世界も主人公も変わらない。

しかし変わるべきは読者の価値観だとも私は思う。
ここまで大きな変化や達成でしか、人生と物語を評価しない物差しで作品を述べた。その基準に乗っ取れば、まさしくこの作品の人生は、虚無に近いだろう。けれどもわたしたちは、歴史の教科書に名前を残せなければ、私のつまらない人生と言わなければいけないのだろうか。

考えてみれば、主人公にも誰にも過ごした日々は、きちんと存在している。役割は移り変わっていくが、なんらかの生活もしている。ならどう考えても、銃で撃ち合ったりしたり、都会で生活をしないことを持って何もない人生を送ったというのは、やはり嘘である。
そして決断が人間の本質だと手放しに賛美されるものとも思えないのである。

繰り返すことによって意味を失った行為は多いが、それでもわたしたちは何かを感じている。私は、この小説を読んで、"私のことだ"と思った、日々の生活を送っている人にそう述べたいのである。

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