見出し画像

戦国武将に学ぶ!No.35~竹中半兵衛②~


”軍師” こと、株式会社GUNSHIコーポレーションの社本です。


このnoteでは経営者の軍師としての目線で、
これからの時代を生き抜く戦略を発信しています。


私は日ごろより周りの方々から
”軍師” というニックネームで、
お呼びいただいています!(笑)

社名であることもその理由ですが、
私は自他共に認める歴史好き!
とくに戦国時代が好きです。


今回は、私が好きで見習っている、
学んでいる武将や軍師を紹介するシリーズ。


ぜひ最後まで楽しんでいただけたら幸いです。




■一番好きな軍師!で2023年を締めくくる!


【戦国武将に学ぶ!】
このシリーズも35本目となりますが、
振り返ればもう既に3年ほど、
細々と書き続けてきました!!


ちょうど3年前。
2020年12月にアップしたのは、
私、軍師が一番好きな軍師!!
竹中半兵衛の記事でした!!


3年前にも書いているのですが、
「一番好きな軍師は誰ですか?」
とよく聞かれます。
シリーズにしているくらいですから
どの武将も好きなのですが、
やはり一番好きなのはこの人です!!


2023年の締めくくりに改めて、
どうして竹中半兵衛が好きなのか!?
を大いに語らせていただきたいと思います!
どうぞお付き合いください!(笑)


竹中半兵衛は最終的に
豊臣秀吉の軍師となります。
軍師として仕えた当時の秀吉は
「木下藤吉郎」と名乗っていましたが、
のちに「羽柴秀吉」になるまで秀吉を支え、
36歳の若さで半兵衛は亡くなります。


(ちなみに半兵衛亡き後、
秀吉を支えて天下統一まで
支えた軍師が黒田官兵衛です。)


秀吉の出世劇の前半を支えた半兵衛が
いかに有能で素晴らしい人物だったかを
物語ったのは、他でもない秀吉でした。


秀吉は半兵衛亡き後、
「半兵衛は生きていた頃は、
本当にどんな苦境にあっても
難しいと思ったことは
一度もなかった
」と
折々口にしていたといいます。


戦略や知略は世間でも有名で、
「敵を制すること神のごとし」
と言われていたといいます。
現代風に表現するなら「キレッキレ」
という感じでしょうか(笑)。


秀吉もその才能に惚れ込み、
三顧の礼で「軍師になってくれ!」
と何度も半兵衛に頼み、
ようやく秀吉の軍師になったと
伝わっているほどです。



■竹中半兵衛の魅力とは何だったのか?



秀吉を魅了した竹中半兵衛。
その魅力は、戦術や知略もさることながら、
半兵衛が持つブランディング力
あったのではないかと私は思っています。


半兵衛のブランディング力が窺える
エピソードをご紹介しましょう。


秀吉が「木下藤吉郎」だった頃。
織田信長家臣団として頭角を現し
次々に実績を上げていきましたが、
こうなってくるとどうなるか?
目立つ存在になっていきます。
つまり、周りから疎まれる可能性が
出てきます。


そこで半兵衛は、
「羽柴」と名乗ることを提案します。


当時、織田家臣団として活躍していた
柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつもらって
「羽柴」と名乗ることで、
当時影響力があった勝家と長秀への
敬意の表明として名を変えることで、
二人を立てたのです。


功績を上げ「生意気な奴め!」と
先輩や上司に疎まれていたとしても、
「名前をください!」と言われたら
「かわいい奴め!」となりそうですよね(笑)。


また、子どもに恵まれなかった秀吉は、
信長の子どもを養子縁組してくださいと
お願いします。


通常の部下の感覚を想像すると、
君主に「子どもを養子にください!」
とは言いにくいのではないかと思いますが、
この秀吉の進言に信長は大変喜び、
すぐに養子縁組したと言われています。


この養子縁組の話を信長に持ち掛けるよう
アドバイスしたのも、もちろん半兵衛です。


こうして仲間に疎まれることなく、
上司にも気に入られ、
活動しやすい環境を整えたのは、
まさにこの半兵衛のブランディング力に
よるものではないかと思います。


こうした半兵衛のブランディング力は
本当にすごいなと思います。
「軍師」と名乗らせていただいている
私としては、世のため人のためになるように
君主に伴走していた半兵衛は師であり、
一年の締めくくりに半兵衛を語ることができて
嬉しく思います!


来年もさらに
半兵衛のような軍師になれるよう、
パワーアップして参りたいと思います!!


次回の記事は今年の振り返りを書こうと
思っていますが、ひとまずこれで、
今年の【戦国武将に学ぶ!】は読み納めです!!


来年もぜひお付き合いくださいね!!





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?