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なぜ哲学を勉強しているのですか?

■他者:なぜ哲学を勉強しているのですか?

■自分:自分は、どう生きるべきか、どう生きるべきでないか?根本的に考えた上で生きたい=行動したいからです。

■他者:その答えは出たのですか?あるいは出そうですか?

■自分:出ました。

■他者:答えは?

■自分:「答えはありません」というのが答えです。

■他者:それでは、哲学の勉強は無駄でしたね。

■自分:無駄ではありません。「答えはありません」という答えが出たので、とてもスッキリしています。

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■自分:もうちょっと詳しく答えれば、「答えはない」というのは「根本的な答えがない」ということであって「条件付きの答えはありそうだな」という感じです。

■他者:条件付きってどういうこと?

■自分:「無条件にこう生きるべき」というのはありませんが、自分の生きている「社会」と「自分自身=個人」の組み合わせで「自分のどう生きるべきか」は変わってくるのでは、ということです。

■他者:社会と自分自身=個人、て?

■自分:社会とは、自分が生きているさまざまな人間関係といっていいかもしれません。家族・親戚・地元のつながり・学校・職場などなど、それぞれの人間関係はそれぞれの人間関係=社会単位ごとに「こう生きるべき」というのがありそうだということです。

これは社会単位ごとに異なっていて、例えば民間企業であれば、企業の利益を増やすための行動が「こう生きるべき」となっているし、家族単位であれば「良好な人間関係と健康とお金」かもしれませんし、社会単位ごとにその行動の指針となる価値観は変わってきます。

その社会ごとの共通の「こうすべき、あるいはこうするとよい」というのがあって、その規範に基づいて生きることです。いわゆる「郷に入れば郷に従う」ということです。

個人的には社会単位ごとの行動の指針の根拠となる価値観のことを、ベストセラーになった「ホモ・サピエンス全史(ノヴァル・ユア・ハラリ著)」の概念「虚構」を流用して「社会の虚構」と自分で勝手に名付けています。

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■他者:それでは自分自身=個人は?

■自分:自分自身は、自分の意志に基づき、遺伝と自分が生きてきた外的環境によって形成されます(当たり前ですが)。

その中で私たちは、自分の「生きる意味」を作っていきます

「生きる意味」は、「ある」とか「ない」とかではなく、自分が誕生して以降、自分に問いかけつつ自分で作っていくものです。

「生きる意味」は、ただぽかんと口を開けて待っていてもやってきません。

「生きる意味」は自分が作るものであって、外から自然にやってくるものではありませんから。これは誤解している人も多いと思います。私はこれを「個人の虚構」と呼んでます(詳細は以下参照)。

そうやって作られた個人の虚構、つまり自分の価値観は、自分の快不快(※)と一体化して自分の感情につながっていきます(哲学的には内面化という)。自分にとって「良かれ」と思ったことが自分の悦びにつながっていき、自分にとって「おかしいな」と思ったことが自分の不機嫌に繋がっていくのです。

※快不快=身体的な単純な「快楽」だけではなく、さまざまな自分自身の肯定的感覚の全てを称して「快」と呼んでいます。達成感・承認欲求の充足などなども含まれます。身体的苦痛を伴う修験者の修行も修験者にとっては自分の精神を満足させるという「快」です。

■他者:そうすると、社会の価値観と個人の価値観が一致しない場合は困りますね。

■自分:困ります。でも一致していれば、その人間関係や社会で生きていくことで、おのずから幸せが到来します。

でも一致していないと、自分の価値観と自分の所属する社会の価値観が違うので、自分は生きるのが苦しくなります。でも両方とも固定的なものではなくて、時代や社会情勢その他さまざまな要因によって社会も個人もどんどん変化していくものです。

そして、社会もいろいろあるし、自分自身もいろいろな価値観を、所属する社会に合わせて複数所有することも可能です(詳細は以下)。

そして社会によっては自分でその社会の価値観を変えられるかもしれないし、あるいは自分の価値観を変える、つまり自分の意識改革によって、これまで不快なものが不快でなくなることもあります。

諺で「石の上にも3年」という言葉もあります。自分の価値観を郷にしたがって三年間修行すれば、その社会の価値観が自分の価値観になる(=不快でなくなる)場合もあります。

■他者:なんか受け身な感じで、あまり感心しませんね。

■自分:でもこれも一つの考え方です。「絶対的な”こうすべき”という答えはない」のですから。この場合は、自分の価値観が社会の価値観にマッチしていないことが問題であって、どっちが正しいということではありません。なので、その方法が受け身かどうか、は全然関係ありません。

仮に「受け身」が嫌であれば、社会と個人がお互いの価値観を合わせていくという方法もあります(「哲学対話(西研)」)。価値観のすり合わせによって、新たな共通の価値観を作り上げていくという作業です。

具体的には社会を構成する仲間内で、お互いの考え方はとりあえず一旦脇におき、個別のテーマに基づいてもう一回お互いの意識に立ち戻って考え、お互いの考えを話し合い、マッチングさせていく作業のことです。

詳細は、以下「哲学は対話する」箇所を参照

■他者:でも社会の存在が大きくて社会の価値観を自分の都合の良いように変えることは実際、難しいことが多いし、自分自身無理して自分の価値観を変えるのは難しいことだから、そう簡単じゃないですよね。

■自分:そう簡単なことではないです。だからといって、そのまま息苦しさを甘んじて受ける必要はありません。

どうあがいても自分の価値観とマッチしない社会=息苦しい社会の場合は、その社会から即刻退避することです。

退避が困難な社会(国家だったり、生活する上での働かざるを得ない職場だったり)の場合でも、何らかの方法で回避する方法はあるはずです。自分のマッチしない部分については「知らんぷり」「そこだけ避ける」などで回避し「マッチすることだけ取り組む」という方法もあります。

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何らかの行動によってきっと「自分の生きるべき」方向性は定まります。そうやって自分の道を切り開いていけば、この世の中、実はたいしたことはありません。なぜなら「絶対こうしなきゃいけない」というものはないからです。

だから仮に今、生きづらさを感じていても、あまり深刻に考える必要はありません。

社会は常に変化しているし、自分も常に変化しています。どんどん変化していきます。10年前の社会と自分を想像してみても、たった10年で大きく変わっていることに気づくはずです。なので、積極的柔軟性をもって

「その時々に合わせて自分の居心地の良い場所を見つけつつ泳いでいればよい」

それが今に生きる私たちの「私の生きる方法」です。

*写真:2012年 大阪市 海遊館

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