(自由な)個人の虚構の行き先
現代日本や西洋民主主義国家の住人たちの価値観を形成する「虚構」は近代市民社会としての原理を「社会の虚構」として共有しているが、はてさて自由になった個人の行き先としての「(自由な)個人の虚構」について、竹田青嗣先生の「人間の未来ーヘーゲル哲学と現代資本主義」をベースに考えてみました。
まずは「社会の虚構」として
西洋では、近代社会以前はキリスト教の価値観によって社会が形成されてきたが、近代社会は「近代哲学」という新しい世界観によって、新しい意味と価値の世界を生み出した。近代社会では「個人の自由の追求と社会全体の福祉の実現との調和」の状態を「良きこと」として定義。
つまり、人は個別的な共同体の枠内でその固定的役割と習俗的ルールによって生きるのではなく「自由の相互承認」を基礎にした社会の普遍的な関係の中で生き、このことを通して自立した個人=近代精神となる。これが社会の虚構となる。
近代哲学は、
政治的には、
個人の自由と権利を認めた上で、個々人間の調整機能と暴力の制御を目的とする近代国家の概念を生み出す。
経済的には、自由市場経済システムを生み出す。これは人々の自由への欲望を根本動機とする「歴史上はじめて現れた持続的な拡大再生産を可能にする経済システム(=資本主義)」として、自由な市場における普遍交換・普遍分業によって富を持続的に増大していく。
このようにして獲得した「自由」の本質とは何か? ここからが「(自由な)個人の虚構」となる。
自由とは、自己自身たろうとする「力」だが、人間においてはそれは「自己価値」を求める「自己欲望」。人間は社会関係を生きるから「自己価値」への欲望は「他者の承認」という契機を必須とする。人間が自由を求めるということは、単にある欲望の可能性を求めること、自立存在となることではなく、本質的に他者関係の中で自己価値の承認を獲得する営み。
近代市民社会は、自由を獲得したことによって、自己価値の欲望の相克の関係として現れる。つまりゴールの定まらない自己欲望の自由ゲームとなる。
自己欲望の自由ゲームとは、
◼️ロマン追求のゲーム=恋愛ゲーム、サクセスゲーム(金銭ゲーム、権力ゲーム、出世ゲーム)
◼️正義のゲーム(革命や政治的信条)
◼️真理のゲーム(自然科学、社会科学などの学問)
◼️絶対本質へと向かうゲーム(芸術ゲーム、宗教ゲーム)
だが、欲望が満たせられるのは20%。残りの80%は挫折しゲームから降り、具体的な人間関係の中での承認欲望を満たす方向性に向かう。つまり、いくつかのゲームも結局は「事そのもの」のゲームに優位性や普遍性があるとの提言。
ヘーゲルの提言する「事そのもの」のゲームとは、誰をも排除しないフェアな承認ゲームであって、個人の自由の表現としての作品(=真の表現的作品、営み)を互いに相互承認するようなゲーム。
以下私の解釈だが「音楽」でいえば売れ線狙いの曲を作って売れた後は誰にも顧みられないという作品を作るというのではなく、本当にいい曲を作って、最初は評価されないけど、じわじわと浸透して後から売れ続いていき、最終的には名曲として後世に名を残すような曲のことを「真の表現的作品=事そのもの」と言っている。
そんなホンモノをアウトプットしあって、お互いに相互承認していくような開かれた営み(=事そのもののゲーム)が人間にとっての自由の行き場ではないかということだ。確かにこれは納得できる。単純な出世だとか、お金を稼いだとか、運動会で1等賞をとっただとか、いわゆる「富と名誉」とは別の、誰もが納得できる哲学らしい回答だなと思う。
ハンナ・アレントの「公共のテーブル」やカール・マルクスの「真の自由の国」も、おおよそは、このヘーゲルの「自由の行き場」の考え方に似ている部分もあるとの紹介もあり。
以上。
別途個人的には「達成のゲーム」みたいなものもあっていいのではと思っていて、フルマラソン完走だとか資格試験の合格だとか、そのこと自身をやり遂げることの個人的満足感(=達成のゲーム)はあるのかなとは思う(もちろん人から評価されたり褒めて貰えばなおさら嬉しいわけですが)。
*イタリア共和国 アッシジ 聖フランチェスコ聖堂
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