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一日一問_今日を最後にするなら何を終えるか

皆さん、こんにちは。

2021年の最初の月もあっという間に過ぎようとしています。

皆さんは、このひと月でどんなことに気が付いていますか。

今日はこの『気づき』について少し書いてみます。私個人のことでもあり、長くなりますが、良かったらお読みください。

気付いた『寂しさ』

コーチとして日頃活動している私ですが、実は昨年秋より、新たにコーチに伴走いただいています。そのきっかけはふとした直感でした。なんとなくですが『私の中には、もう一つ深いところに本音が眠っているな』という感覚が2020年当初から湧いている中で、私が見てこなかった何か、があるように感じ、それを探求したいと思ったのです。

コーチングを受けてしばらくして私は自分の中に『寂しさ』が深く眠っていることに気づき始めました。

そしてその『寂しさ』を長い間なかったようにしてきたことや、うっすら気付いていたけれど、それをエネルギー源(ガソリン)に無理やり前を向いて突っ走ってきたこと、を一つ一つ思い返してきました。

寂しさは『私の気持ちを本当に分かってくれる人はこの世界にはたった一人もいないだろう』という強烈な思い込みを私に与えており、そのため、本音の本音を誰かに話すことを恐れてきたし、それを伝えた後に何も起きない、という事を不安に思ってきたことにも気が付いたのでした。

コーチはそんな私を『毎日毎日、寂しい劇場を開演し、永遠一人で舞台に立ち続けていることを自分に強いている状態』と愛をこめて指摘してくれました。

毎日、寂しい劇場を開演している私。もうそれ、笑えない。そして本当にその通り過ぎて、胸が痛い。そんな風に感じました。同時に、こんな風に自分のマインドをセットせざるを得ない自分がいたんだよな、とこれまでの自分の道のりにも思いを馳せるようになり、ただただ『今までの自分・今の自分』を受け入れるよう努力を重ねています。

今日はその『そうせざるを得なかった自分』についても書いてみます。(気づきが少しずつ言葉になる中で、マイコーチの勧めもあって『私の本音』としてこうやって文章に残すことも始めています。きっとこのことが、何かに繋がると信じて)

寂しさの入り口

思い起こすと、私は小学校低学年のある出来事を引き金に、ずっと『寂しい』という感情を胸の奥に感じてきました。

きっかけとなる出来事はとても些細なものでした。2年生の時です。

ある朝、クラスの先生に頼まれ、5年生の教室に荷物を届けました。何を届けたかはわかりません。ただ、まだ2年生だった私にとって5年生の教室に行くこと自体、とても勇気のいることだったことは想像に難くありません。

そんな私に起きたこと。それは、ドアのそばにいたそのクラスの男子に『お前、女?なんでそんなに色黒くてかわいくないの?』と言われたこと。

その時の何とも言えない気持ちを今でも忘れません。私は確かに、年齢の割に背が高く、やせ形でとてもよく日焼けしていました。弟と遊ぶことも多く、人形遊びよりは野球やドッチボールが好きだったのです。

ただ、このことが起きた時、私はとっさに『こんなことをお母さんやお父さんが知ったら、悲しくなるんじゃないかな』と思ったのです。たった8歳の私は自分の気持ちよりも周りの大人の感情に意識が向いたのでした。

そのため、私は素直な気持ち(おそらくは泣きたかったはず)を周りの大人や友人に表現することができませんでした。

正確には『こんなことがあった』とは話したと思うのだけれど、本当の意味で『分かってもらえた』とは思えず、それ以降『本音を洗いざらい言う』という事がだんだんと苦手になっていったのでした。

分かってもらえない感覚になるのは当然です。なぜなら私がそれを言っていないから。

そんな出来事をきっかけに『私の本当の気持ちは人に伝えられない』という事が積み重なり、私という存在は『絶対的に一人きり』という自己認識が育っていったのでした。

寂しさは大人になっても続き、寂しいという感情を持つこと自体『ネガティブなこと』と私の中で勝手に判断し『私は寂しくないはず(だって沢山の人と共に生きているし、社会とも繋がりあっている!)』と必死に自分を奮い立たせてきました。

でもそうすればするほど、心の奥の奥は『寂しかった』のです。

寂しいという気持ちを隠せば隠すほど、やるせなくて、誰かを頼りにしたいと思う事も多かった。でも、一体誰を頼りにしたらいいかわからなかったし、頼りにしようとしても助けにはならなかった(気持ちを分かってもらえない)経験を何度も何度も繰り返してきた。その事に傷つき、疲れ果てていた。私は結局ずっと寂しかったし、今もなお寂しいのだ。

そのことを認めるのは私にとって勇気のいることでした。でも『寂しいなんで、そんな残念なこと良くないよ』と自分をうっすら否定していたのは他ならぬ自分だったのだ、と気が付き、頭を殴られるような衝撃を受けました。壮大な自分いじめを約30年していたんだ、と。

私は寂しかったし、今もやっぱり寂しいね、と認めてしまうと『あぁ、その通りだわ。可哀そうな私』と心が落ち着いていく不思議な感覚を今は感じています。

私は寂しい。ただそれだけなのです。

それを隠す必要も、偽る必要もありません。寂しさを知っている、幼い頃からずっと。ただ、それだけ。

月末に思う『自然の摂理』

意識が開いていると似たような言葉が目に付くものです。

私は、今朝から『手放すと入る』という言葉を3度も見ました。

意識が『手放す』ということに向けて開いている、という事だと思います。

この『手放すと入る』というのは自然の摂理です。私たちは『陰陽のバランス』を無意識にとりながら生きています。

今日は一月最終日。私もまた一つの区切りとして『手放す』という事を考えてみたくなりました。

今日で何かが終わる、とするなら、なにを終わりにしようか、と。

寂しくなるばかりの表面的な関係

少し刺激的な表現ですが、私は最近のSNSに対して強い違和感があります。言い方を変えると、SNSでの繋がりはとてつもなく『表面的な繋がり』だと感じているのです。

それは実際に会ったことがある、ない、というようなことを言っているというよりは『繋がっている』ということ自体が仮想で『心の繋がり(本当の意味での繋がり)』がほとんどない、という事への違和感です。

なんとまあ、空虚で、寂しさだけが残る場所だな、と感じます。

私は『寂しい』という事に敏感です。私にとって何より大切なのは『本当に繋がりあっているという感覚』です。表面的なものに触れ続けていると、私は傷つくのです。

なので、私は今日を最後にTwitterをひと月やめます。このまま、全く触らないこともあるかもしれません。いずれにしても、本当に繋がるものは媒介がなくても繋がると思ってるし、そうでありたいと願うのです。

私はなんだかんだ、表面的な繋がりに疲れ、寂しさを感じ取っていた。その事を素直に認め『さみしかったよね、ごめんね私』と自分の本音に素直に従おうと思います。

一日一問は私を私自身に繋ぐ、大切な問いです。この問いが、あなた自身の『自分を大切に感じる時間』になれば私は本当に嬉しいです。例えあなたとお会いすることが一生なかったとしても、私たちはそれぞれの命の深いところでどこか繋がりあっているように、私は感じるから。

それは私にとって、寂しくない、深い繋がりの感覚なのです。

少し長くなりました。こんな私です。これからもどうぞよろしくお願いします。あなたとのご縁に感謝しています。




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