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下手な洒落は洒落にならない(からっぽ男の憂鬱・2023/03/22)

 今、noteの自己紹介には「作家」と名乗っている。
 他のこともしないわけではないが、あえて言い切って、「作家」を名乗ることにした。

 以前は「まだ何物でも無い者」を名乗っていた。
 その前は「作家見習い補佐代理」を名乗っていた。

 この類の言葉遊びは嫌いじゃないのだけど、やめることにした。
 自分のことを卑下する遊びはやめることにしたのだ。

 自己卑下してしまうのは、もう癖になってしまっている。
 一歩引いたところで話す、まではいいのだけど。
 必要以上に自分をおとしめる癖になってしまった。

 最初は洒落のつもりだった。

 俺は伊集院光のラジオのヘヴィーリスナーである。
 もう十何年も聴いているし、古い録音も聴いたりする。
 その中で構成作家の下っ端をやっていた方を「アルバイト見習い補佐代理」と呼んでいた。
 まあ、丸パクリではあるけれど、良いフレーズだな、と思って、「劇作家見習い補佐代理」を名乗った。

 だけど、いろんなモノを書きたくなって、「劇作家」というくくりを敢えて取って、「作家」とした。
 一番頭にあるのは「劇作家」になりたい、と言う想いだ。
 ただ、それだと小説やエッセイを書く時に、自分の足かせになると思った。

 だから「劇作家」から広い意味での「作家」にしようと想った

 ただ、まだ自信がないのだ。
「持病が邪魔していて」という言い訳を込めて、「まだ無い者でも無い者」とした。
 いずれ「何者」かになる、と言う想いがあったからだ。

 しかし、この肩書きも、しょせん「甘えである」と気づかされたのは、せっせと手伝っている、ミュージカル製作団体「ウキヨホテルプロジェクト」の主宰で、「生涯の友」と想っている河田唱子女史に。言われたひと言だ。

「役者を不安にさせるんじゃない」

 そうなのだ。

 いろんなモノを書き進めたい。
 その一心で進んでいるけれど、俺は「劇作家」を目指している。
 今のところ、具体的な上演予定は無い。
 だが、「戯曲」という表現媒体に託す想いは強い。

 小説も書くことにしてはいる。
 それは戯曲という媒体があまりに狭い立場でしかないからだ。
 ある種の狭い世界の勝負だ。
 だが、俺には劇作への強い思いがある。
 上演できなくとも、「芝居」を書きたいのだ。
「役者」と「観客」の想像力を使って、ある程度の人間のイマジネーションを未知の世界へ運んでいく。
 戯曲の上で「ここはアメリカ」の一行を書くだけでそこはアメリカであり「一方、福島では」と書けば、話は福島へ行く。
(モノの例えだから、そんな安易な芝居は書かないけど)

 小説でも出来ないことはない。
 ただし、「小説」と「戯曲」には大きな違いがある。
 舞台に乗った時、途中で止まらないのだ。
 先ほど「上演できなくて良い」と書きはしたけれど、「芝居」「戯曲」という媒体は、途中で止まらないのだ。
 小説も、もちろん最後まで読ませる、というのが大前提である。
だけど、小説は中断が出来、戯曲はノンストップでなければならない、という矜持が俺にはある。

 10年前、持病が悪化して精神病院へ3ヶ月入院した経験がある。
 その際、パソコンは持ち込めなかったので、A4ノートに細かい字で、ひたすら毎日の日記を書いていた。
 その時に毎日書いていたのは「芝居を書きたい」という言葉だ。

 劇作家は孤独だ。
 もちろん舞台というまな板に乗る時は大勢の人間の手を借りる。
 だが、そこに行き着くまで、小説の何倍もの情報量が必要だと思っている。
 1行のセリフですべてが決まる。
 その1行をひねり出すのにどれだけバックグラウンドが必要なのか。
経験上わかっている。

 だから、劇作はやめられないのだ。

 小説は、莫大な情報量を伝えるためには、何枚も費やすことが出来る。
戯曲はそぎ落として、情報量を詰め込まなければなければならない。
 そういう分野だと思っている。

 小説には、長さに限界がない。
 戯曲は、観客が耐えられる限界を設けなければならない。
 それは大前提だと思う。
 その制限のために、やめられないのだ。

 話が大きくズレたが。

 劇作家は孤独な作業だ。
 世界を作らなければならない。
 だが、役者に信頼されなければ、何にもならない。
 演出家に応えられるモノを書かなければない。
(「作・演出」が主流を占めているが、それはそれで問題があると思っている)

 だからこそ、「古典」にもなり得る、「戯曲」という手段に自分を賭したい。

 そのためには、信頼されなければ何にもならない。
 シェイクスピアだって、時代に耐えたという信頼があるから、残ったのだ。
 その信頼を、ハナから植えるけるのが、「何者でも無い」という肩書きだ。
 小説にしても、エッセイにしても、読み手を不安にさせる事をしてはいけない。
 それが、「何者でも無い」という言葉遊びの最大の欠点だ。

 だから。
 俺は「作家である」と名乗ることにした。

 足枷になることも多々あるだろう。
 だが、それくらいのことを乗り越えられないで、物作りをするべきではないと思う。

「モノを作る」
 その段階で作家だ。
 文章だけでなく様々な美術品にも言えることだけど。

 だから、不安にさせる要素を取らなければならない。

 だから「俺は作家だ」と名乗ることにした。

 後は、作り続けるだけ。
 それが作家の使命だ。

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