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「オタク」のお囃子。


最近、ときどき着物を着て出かける。
という冬物(洋服で例えるとセーターのような)を、暑くなる前に大慌てで着てしまって風を通してキチンとしまっておかないと、
最近は、春なんて瞬足ですぐに去ってしまうから、暑くてすぐに着れなくなってしまう。
春秋物の単衣(洋服でいうとシャツ)にはまだ余裕がある。夏が過ぎて、秋にもう一度着るチャンスが来るからだ。
しかし単衣の次に控える夏物の、のスケスケ超絶可愛い着物(洋服でいうとTシャツかキャミソールか)たちのことを考えると、途端に気忙しくなる。
東京のあの猛暑で浴衣すら着れる気がしない私には、これ以上暑くなる前に夏物をあらかた着尽くして風通しをやっておかないと、また来年まで1年も2年もタンスに寝かすことになってしまうからだ。

そんなわけで、日々追い立てられるように着物のコーディネートをあれこれ組んでいると、ダンジョンのように次々と次の知らなかった世界が広がって、どこまでも深淵に誘われて行くのを感じて感動する。
世の中には、着物警察なんていうのがあるらしく、着物を着ている者にあれこれ注意して来る、と噂される。
でも、私の感覚では、時々スーッと現れる着物警察は、どなたも優しい。
トイレから出て来たところで遠くから、尻尾のジェスチャーで帯の始末を注意をしてくれたりする。
そういういかにも初心者がやりそうなミスに気を配ってくれるということは、今日は着ておられなくても、お着物のことをよくご存知の方なんだな、とこちらも嬉しくなる。
大抵そういう方は、すれ違いざまそっと耳元で、素敵よ〜、なんてフォローをして去って行かれる。
着物警察に心を打ち砕かれて、ここで後進がこの世界を諦めてしまわないように。
もっと奥までおいで、と言われているようだ。
まだまだ続きがある、もっと面白いよ、その先まで潜っておいで。
どこまでも深く、終わりなどない。

分かりたい人は拒まない。どこまで進むかは、その人の自由。
けれど、興味のない人にはなんのことだか分からないほど、深い世界。
こういう世界観って、日本固有の在り方のように思える。

着物のことを考えていると、浮かぶあらゆる細かな感情の機微に、着物の方がピタリと合わせてくるのを感じて、驚く事がある。
八百万という言葉があるけれど、日本人は本当に、季節、草木、花、動物、山や海や空といった大自然、風景、魚、虫、食、自分にとって思い入れのある道具に至るまで、眼に映るあらゆるものを愛でる感性を持っている。
感性が豊かだ、というざっくりした表現で伝わらないなら、感情の種類が異常に多い、と言えばいいのか。
8分音符が16分音符になり、そこからさらに裏拍をとって、、、みたいに、どこまでもミクロの空間を「好き」で埋め尽くし、独自のマクロな世界を創造して行く、そこに喜びを感じる生き物のようだ。

例えば、幽霊の柄の着物を着たいのって、どんな気分のときだろう。
勇ましいの入ったお太鼓を、背中に背負いたくなるのは?
立派なが大波に乗って勇ましく前進する絵が描かれた一張羅を、あなたならいつ羽織りたいと思うだろう。
私ならきっと、誰か大切な人が遠くに行くのを見送るときだ。
たくさんの追い風がその人に吹いて有意義な滞在となり、そして安全に帰って来てほしいという気持ちをそこに込めると思う。

帯や着物だけではない。
着物から本当にちらりとのぞくだけの小さな部位にまで、意匠を凝らせようと思うと、あらゆる種類のものが「いらっしゃい!」と言わんばかりにさまざまな顔を揃えて待っている。
着物姿の人が階段を登るとき、裾からトランプやサイコロの柄の裾除けが覗いたら、その人は今日が、なにか大事な勝負の日なのかもしれない。
あなたに会いに来た人の袂の内に、ハートの柄やあなたに所縁のある花なんか見つけてしまったら、例えお腹の真ん中にドーンとキュウリの絵柄が描いてあったとしても、その人は多分、あなたのことが好きだ。

そこにさらに、日本津々浦々、地域に根ざした織り染めに無数の技法があり、模様一つにも名前があり、
この柄は人間国宝の誰それさんにしかできないから、もしも亡くなったら技術が途絶えてしまう、なんて世界がどこまでもどこまでも広がっている。
細かな感情の機微に対して、微に入り細に入り応えてくれる着物や小物が存在していて、ミクロから自分だけのマクロを構築する楽しさを、どこまでも追求できる世界が当たり前に用意されている。
それらは、着物を着る側だけでなく、きっとこれも必要になるだろうってそれを作ろうと発案する職人さんたちの気持ちがなければ、生まれ得なかったものだ。


海外の人の話など聞いていても、やはり日本人は突出して感情の種類が多い、という印象を抱くことがあるようだ。
”マンガ”から”アニメ”が世界に認知されて向こう、そのオノマトペの多さに外国人が驚愕してるなんて話をよく聞く。
日本にあるオノマトペは、一説に4500種、あるいはそれ以上あると言われ、その数は他国を圧倒している。それが実際今も日々増殖を続けているわけだから、いったいいくつあるのか専門家でも判別できない。
例えば、今、私の右手で左手を触って、思いつくオノマトペを羅列してみる。

スリスリ、チクチク、ゴワゴワ、カサカサ、さらさら、ベトベト、ぴたぴた、さわさわ、ツンツン、ガサガサ、シワシワ、すべすべ、ツルツル、ぞわぞわ、なでなで、ペチペチ、パチパチ、バンバン、バシバシ、にぎにぎ、ふわふわ…

その全ての微細な感覚に潜む差異を、私たちは二文字の音を二回唱えるだけで、別に野暮な説明や辞書などなくても魔法のように簡単に他人と共有することができる。


かつて、江戸の町を駆け抜けた飛脚やカゴ持ちなどは、疲れ知らずに今じゃ信じられないような長距離を動き回った。彼らに伝わったとされる、今は失われた歩行法に、ナンバ歩きというものがある。
映像があるわけでもなく、正式に伝承している人もおらず、想像でしか再現できないのだというが、
忍者や武士に想いを馳せるだけで、私たちは、そんな見たことのない歩行法がきっとあったのだろうと容易に想像することができる。
調べると、面白いことに他にもいくつもの失われた日本独自の歩行法があったことがわかる。
確かに、時代劇で玉砂利をこすって走るシーンを見ても、能や歌舞伎を見ても、やはり私たちの日常とは、足音から歩き方が違う。それは今の私たちの歩き方と、どんな風に違っていたのだろう。

自分でも着物を着るようになって気がついたが、草履で歩くと、ではなく自然とつま先から足がつく。時代劇で見るような、上半身を動かさず、お腹に自然に力を入れた重心を下ろしたような歩き方になる。
それが靴を履いていると後ろ体重気味になって、どうやっても踵が最初に地面につくようになる。
人体を深く研究している人によれば、踵から足を下ろすスーパーモデルのような歩き方や陸上競技で当たり前に推奨される走り方は、実は、スピードという側面からも健康という側面からも、それがベストであると立証できる根拠は特にないのだという。

江戸の日本人が、現代の私たちから見れば無尽蔵な脚力を持っていたことを考えると、
国際大会の現行ルールの元、何かの競技で有利に勝てるのかどうかは別にして、
このような歩き方こそ本来、人体にとって一番疲れにくく、足腰を鍛える歩き方だった可能性もある。
ここでも、昔の人は現代の私たちよりもずっとうまく、自身の身体との対話が出来ていたように思えてくる。
どうしたら疲れず、速く、歩き続けられるか。重い荷物を持って歩く体力を維持できるか。

文明開化がそこら中で叫ばれた明治期の日本人はきっと、初めて靴なるものを履いて、まるでふわふわと後ろにひっくり返りそうな、自分を喪失しそうな感覚を味わったのではないか。

日本人は本当に、時代とともにいろんなものを奪われ、忘れてしまった。

私は、自分がHSPだと自認したとき、そのマイノリティな特徴を抱えて、大多数のそうでない人たちの中でこれから、どうやって生きていくのだろうって、実際かなり、ショックを受けた。
けれど様々な着物に触れるようになって、草履を履くようになって、それは違うのだと確信を持った。
本来の日本人は、全員がHSPだ。
HSPの私が変わっている少数派の異端児なんじゃなくて、本当は全ての日本人がHSPなのに、ただみんなそれを忘れてしまっているだけだ。

今日着ていく洋服を選ぶ。
今日は暑いから半袖にしよう、ジャケットは必要か。色は、素材は。
その感覚と着物を選ぶ感覚とは、奥行きに絶対的な相違がある。
模様として植物の葉の形、花の形が綺麗だな、というような、ただ自然や季節の変化を捉え愛でる感覚を、着物の懐は、はるかに超越している。

日本人は本来、日々の己の心の機微と、こんなにも深く細かく繋がっていたんだな、と着物を通じて私は初めて体感した。
そして、自分の感覚なんてすっかり抜け落ちて、抜け殻みたいに他人の気持ちに振り回されてこの歳まで生きて来た自分のような人間でさえ、細々と、しかし脈々と、どこかでその感性を受け継ぎながら生きて来たのだということに気がついて、本当に嬉しかった。

日本は、古来からその生き方に張り詰めたような美学があって、殿様のために死ぬとか、忠義のために命をかけるとか、操の為に出家するとか、そういう話に共感して涙するのが好きだ。
お金よりも名誉よりも恋を貫くために命をかけるとか、
ズルして勝利にこだわるより、清廉潔白でありながら正々堂々勝利することに、鳥肌が立つほどの美学を感じる。
武士道や、忍者が体現していたの意識は、今も私たちにとってどこか深いところに響く。
そういう自分の在り方、生き様のためには、命すらかけることが美しい、っていうような死生観が、昔は今よりもっと根付いていて、だらだら生き永らえることよりも、目先の損得よりも、在り方の方が大切、という感覚があったのだろう。
やってる本人たちもきっと、そんな自分に陶酔していたんだろうとしか思えない。
現代の私たちが仮に、これは切腹ものだ、なんて言われても、それを実行できる気骨はきっとかけらも残っていない。

別の見方をすれば、かつてはそういう素地が連綿とあったからこそ、天皇陛下のためお国のために命をかけましょう、なんて言われて、国民がそこに突き進む事が出来てしまったのだろうと思う。
でもそれをやろうとしてももう、今の私たちには無理だ。
もう戦争はできない。
少なくとも、自衛隊でもない一般国民を徴兵して巻き込んで、国民総出で「国のため」という曖昧な看板を掲げて戦争するなんてことは二度とできない。
もう、その素地がない。
その素地を恐れたGHQが、戦勝諸国が、時間をかけて徹底的にそれを壊してしまった。

現代において、例えば「国家を守るために、天皇陛下のために、若者は戦争に行きましょう」
なんてご高齢の政治家たちが先導してみたとしよう。
はあ?オメーが行けよ、で終わりだ。
あの国の蛮行は許せない、どうしてもあの国と戦争するぞ!ってお上がいくら煽っても、ニュースで連日流しても、
SNSで「そうだそうだ!」って乗っかって来るおっさんおばさんはいたとしても、いざ自分の前にその現実が突きつけられれば、
えー…、ってなってイマイチ盛り上がらない。

かつての、お国の父や母や小さい妹を守るために…なんて理屈を持ち出したとて、共感してくれる若者の数なんて、高が知れている。
自分らは年金もらって俺らの生活のための金を奪っていて、
俺らは払うだけ、待っていたって年金なんてもらえもしないのに?
それなのに、そいつらの命をさらに永らえるために、いますぐ戦場で死ね?
マスクだってワクチンだって、高齢者を守れって言われて参加してやったのに。
声にならない不満が渦巻くだけだ。
そして、誰も動かない。
もうええ加減にせえよ、って鼻で笑うだけだ。
若者に人気のインフルエンサーを使って洗脳しようとしても、もうそれはワクチンで使い果たしてしまった。
見渡しても、駒になるような影響力、説得力のある人が残っていない。


最近はネットでワクチンを検索すると、上位に当たり前にこんなのが上がってくるようになった。
以前は露骨に隠されていたのに、風向きは完全に変わったように見える。

ワクチンを打つと血栓ができるなんて話は、接種が始まった当初から分かってる人にはとっくに分かっていたことなのに、
一斉にその情報をシカトし隠蔽し、SNSを使って情報を繋ごうとする人たちを陰謀論者だ、って袋叩きにして情報統制してきた。

海外から少し遅れて始まった摂取は、日本にまだ少ししか入って来ていないという稀少性があって、
早い者勝ちですよ!という煽りに乗って、老人たちは慣れない携帯を片手に目の色を変えて予約していった。
もう少し若い年代には、テレビやインフルエンサーを使って徹底的に、ワクチンを打つ人はお利口さん、あなたは周囲に迷惑をかける病原体になりたいのか、と言って煽る。
心の弱い人たちは地引網みたいに、そこに簡単に引っかかって行ってしまった。

我慢して、副反応の恐怖に耐え、周囲の人のためにワクチンを打つ人はいい人。
マスクをしている人はまともな人。
そういう社会的な同調圧力があっという間に作られ、ワクチンに否定的なことを言う人は変人扱い、言説は結局、正当に精査されることもなかったのではなかったか。

「今から世界中の人類を使って治験を開始します」って明確に言ってるのに、多くの人が専門家が感染予防効果は90パーセントだと言っているから安全だ、と信じてしまう。
治験前なのに、その90パーセントとは一体どっから持ってきた数字なのか。誰もそれを明らかにしない。疑問を持たない。
矛盾点を指摘しても、ネットの怪しい専門家なんかではなくて、大手メディアに選ばれた正当な専門家が言っているんだからそれがエビデンスだ、と言い張る。
その、大手メディアは、どうしてその専門家を選んだのか。
その専門家がエビデンスとして出してる数字の根拠は、何処なのか。
エビデンス、って一体?

その意味も定義も、誰も正確に理解しないままなんとなく共通認識、カッコ良さそうなワードに、立ち止まって検証もしないまま騙されていってしまう。
その、目新しい横文字で大衆の頭を混乱させ、強引に政策を推し進めるのが常套手段だった東京都の女帝が、今や詐欺師まがいの方法で学歴詐称していたと追い詰められて身動きも取れないというんだから、もはや噴飯ものの展開だ。


ワクチンも、今はあらかた稼ぎ終わって店じまい、深い総括のないまま、全てがうやむやにされようとしている。

(記事より)
同社は「複数の新型コロナワクチンが開発され、入手可能な最新ワクチンの余剰がある」と指摘し、これがバキスゼブリアの需要減少につながったと説明した。同ワクチンは既に生産と供給を終了している。
報道によると、同社は以前に法定文書で同ワクチンが血栓や血小板数の減少などの副作用を引き起こすことを認めている

それでも、少なくとも以前はワクチンに対して否定的なことをいえば一斉に袋叩きにあったような空気はもう、雲散霧消、消えてしまった。
世界中で、ワクチンに関するネガティブな論文が連発され、少数派として黙らせたはずの陰謀論者が息を吹き返して闊歩しても、もう誰も反論しに来ない。
みんな、静かになって何処かに行ってしまった。

壊れた列車が暴走を続けるように世界中が、さらに露骨に、各国の政治家を使って私たちの不利益になる政策ばかりを推し進め始めている。
表面、スローガンだけ立派なのはこれまでと一緒。
しかし、そのハリボテがあまりに杜撰でお粗末すぎて、みんなが、何かがおかしいと混乱し始めている。

今まで習った方程式では解き方すら思いつかない問題を前に、思考停止している。コロナ感染対策のきちんとした反省や振り返りもないまま、WHOによるパンデミック条約が、詳しい報道も精査もないまま推し進められている。


学歴詐称疑惑の女帝は相変わらず、オリンピックの怪しい利権についても追求されないまま東京を仕切り、本人は死んだ魚のような目になっているのに、
どうぞお早く三期目の立候補表明してください、なんて後ろからグイグイお尻を押される。
誰も求めてない大阪万博が、中止しろの大合唱にもシラを切り通して押し進められる。工事が遅れ、事故が起こり、出展予定だった国が次々辞退を表明し、誰も行きたがってないことが明らかになっても、止まらない。

アメリカのポチなんて批判の矛先を一身に浴びている岸田政権もまた然り。
アメリカの大統領なんてあと数ヶ月でどうやら政権交代の兆し、しかも当人は世界中から認知症のヨボヨボ老人だと看破されているというのに、一体、彼らは何を恐れているのだろう。
誰も疑問に思わない。
彼らはどこを見ている?誰の、何を恐れて言いなりになっている?

世界中で、移民を推奨し、地域の治安を壊しLGBTQを叫び、文化を壊し、水道などのインフラを諸外国に売り渡し農業を潰し酪農を追い詰め、世界中でそれに怒った国民が声をあげても、政治家は内容のない綺麗事を述べるだけ。
もはや露骨に悪意を隠さない。
誰かが私たちの生活基盤を、大急ぎで根本から壊そうと躍起になっている。

世界初のレプリコンワクチンの工場が、世界に先駆けて日本にだけ作られているという。なんでこんなことをするのか、私にはずっと疑問だった。
確かに日本人は、世界中で如何わしさを感じてとっくにやめてしまったワクチンを、今でも7回も8回も摂取するような、お人好しで従順なカモだ。
それでも、流石にレプリコンワクチンはどうなんだろう。

日本人は「みんながやってる」ものが好きなんであって、新しいものに率先して飛びつく先駆者タイプではない。
世界中、みんながやってるわけじゃないワクチンじゃあきっと、今回ほど人気は出ない、まして海外では嫌厭する人の方が多いだろう。
それを法律的なアプローチでガチガチにして強制なんかしたら、
日本人は2−3割が大人しく摂取したとしても、その日本の様子を見た海外は震え上がって、いよいよ銃を持って戦い始めるのではないか。
そんなんで果たして、採算がとれるのか。
寡占したものたちの、その後の逃げ道は、ちゃんと用意してあるのだろうか。

どんどん、計画は杜撰になって、ボロボロの看板が薄汚く剥がれて来ているのに、
それでもやめられない。止まらない。
まるで、全員がタネを知ってる手品を、汗びっしょりになりながら衆人環視やらされている手品師のショーのようだ。


それでも私たちは、怒ることが出来ない。
テレビに向かって文句を言い、近所の井戸端会議で議題にし、ネットにちょっと辛辣な言葉を書き込むのが精一杯。
なぜそれを、ここで立ち止まって精査し振り返り、全体を総括して反省することが出来ないのか。
現実と向き合うことが、出来ないのか。

それは、その言論統制をやったのが、あなた自身だからだ。
誰だって、正しいと思っていた、善良だと思っていた自分のの部分を認め直視するのは苦しい。

これはやっちゃダメ。
マスクしなきゃダメ。
セクハラはダメ。
パワハラはだめ。
これはパワハラ。それはイジメ。
そうやって一つ一つ怒ってもいいことを線引きして明文化してもらわないと、私たちは怒れない。
自分が内側、怒っていることにも、気が付けない。
それほどまでに、私たちは精神の根っこを折られている。

広島や長崎の原爆のことを、日本人は拳を振り上げて怒ることが出来ない。
日本中の大都市に空襲を受け一般市民が虐殺されようが沖縄戦だろうが、なんでもござれ。
アジアの国々に迷惑をかけ戦争責任を追っている私たちは、全て自己責任としてそれを享受しなければいけないのだという。
原爆について、「あんなのジェノサイドだ!」「人類史上最悪の大犯罪だ!」って怒ってもいい、って、私たちの教科書には書いてないからだ。
海外からやって来て、日本人がアメリカを恨んでいないことに驚き、日本人は優しいなんて総括する人がいるけれど、優しいから怒ってないんじゃない。
私たちはあまりにひどい目にあって、盛大な乖離を経験し、それを未だ乗り越えていないだけだ。
それほどの、残虐な歴史を私たちは経験して来た。

でも、とうとうそれと、向き合うべきタイミングが来ている。
いよいよそれを総括し、乗り越えることを迫られている。
ヨーロッパ最貧国のウクライナが、ロシア相手に戦争が異様なほど長引いていることを、おかしいと思わないのは何故なのか。
本当は、あそこで何が起きているのか。
パレスチナの人たちをまるで漫画、進撃の巨人のように狭い地域に壁で囲って閉じ込めて、空爆で北へ北へと追い詰めた最終地で虐殺が起こり、イスラエルに対する反感はピークに達しようとしている。
世界中でこれほどの反対運動が起きているのに、一体誰があの国土の小さなイスラエルを支援しているのか。
以前なら、そんなことは私が死ぬまで明らかにされることはないし、知ることはできない、
何か疑問をかき集めてもどうせ、陰謀論でしょって片付けられて、いつしか疑問を抱いた人も日常に追われて頭の片隅にそのことが追いやられ、やがて寿命を迎えてしまう、
世の中とはそういうものだって初めから諦めていた。
でも、今は違う。
今度こそ、何もかもが明らかになるような期待と恐れが、
今にも暴発しそうな矛盾が、
火にかけたやかんのようにけたたましく私たちの日常をせっついている。


真実を知るということは、恐ろしいことだ。
多くの人がそれが怖いから、ワクチンの真実にも目を向けようとしない。
それでもひたひたと人口動態統計が不気味な線を描き、体調を崩す人が増えている。
それが我が身に起こって身動き取れなくギリギリまで向き合おうとはしない。
分かってしまった人は、勇気のない人たちを、ここでじっくり待っているしかない。

(動画より)戦争を総括できていない、ごまかしたままここまできた結果が積み上がっている。
マスクやワクチンを、やるのが当たり前でしょ、って同調圧力で他者に強要することが人権侵害だという、一般の認識がない。そういう考え方こそが、人権侵害をする政府を惹起しているのだ。
この素地を作っているのは自分自身だ、という認識を持つこと。
命が大事だから、自由を制限するのは当たり前だ、という感覚はあっているのか。
自分が被害者である、という自己憐憫をやめない限り、自分の死は他人によっていつでも振り回され得るものになり、責任を取れなくなり、結局全てがタブー視されるようになる。
戦争責任も、東京裁判によって責任を取らされた者はいても、取った者はいない。
同調圧力によって、誰も死にたくなどなかったのに万歳三唱をして戦地に行って、兵隊の多くが餓死した。
各地に空襲を受け、原爆を二発受け、一般市民を大虐殺されたにも関わらず、
その虐殺を引き起こしたアメリカの原爆の傘の下で、かろうじて安全保障をつないで生きながらえる。
そういう他人に生殺与奪の権利を明け渡した生き方を選択し、その盛大な矛盾を正すこともできないでいる。


まさにコロナの時に起きたこと。
自分よりもみんなのために。
それをやらない人は非国民。

私たちは、このコロナによって、長い間放置した、壮大な伏線を回収しようとしている。
少数の意見を封殺したのはマスコミのせいだ!と糾弾する声はあるけれど、
私の実感では、私の声を封じに来たのは、マスコミではない。
家族のうんざりした顔であり、近所の人の白い目であり、子供達の学校の厳しい規則であり、ネットで出会った見知らぬ一人一人からの罵声だ。

今まさに、今まで何とかごまかし逃げ回って来たここを、乗り越えさせようとする優しいエネルギーが私たちの喉元に突きつけられている。
あらゆる方面から私たちは、容赦なく追い詰められている。
気がつくまで、揺さぶられ続ける。
ワクチンについてネガティブな情報も検索してみよう、と思い立たない限り、いつまでもその情報に行き着けないように。

出来るか出来ないか、ではない。やらされるのだ。
それほどまで、このコロナとワクチンの騒ぎは、やってはならない禁忌を踏み越えた。
もう戻れない。
底を打ってもう反転せざるを得ないところまで、私たちは極まってしまった。



まだ、世界は眠ったままだ。
どうせ政治家はや芸能人や有名人は逃げおおせる。
少しは悪いことしててもその人ならば許される、お咎めなし、それも仕方ない。
だってあの人たちは、自分とは別の世界の人だから。

それでもその人たちは、順番にこの社会から立場を失って消えて行く。
あなたよりも、あの人の方が人間として絶対的な価値がある、みたいなその観念、それは本当に合ってますか?
本当に?って、一つ一つ突きつけられる。
洗脳が解けていく。

ハマスが先にひどいことをしたのだから、パレスチナで塀の中に追い詰めた民間人、小さな子供達を殺すのは仕方がないこと?
そんなひどい屁理屈が、まかり通るのだろうか?
じゃあ、原爆は?空襲は?
あの時と同じ屁理屈。いつでも繰り返されてきた常套手段
日本軍が悪だから、日本の民間人を戦争によって攻撃するのは正当性がある?
あの戦争を止めるために、原爆は必要悪だった、と公言したのは誰だったか。

今起きていることは、文春と誰かの争いではない。
西側メディアとその他の争いでもない。
肥大した私たちの観念を、外側を何度も同じところをなぞりながら丁寧に剥いていく作業。
輝いて見えたもの。生涯変わらない価値のあるもの。絶対的な権力があるように見えたもの。
中心に向かってバームクーヘンを一枚ずつめくって食べるみたいに、少しずつ剥がされてそれらの本当の姿が顕になっていく。
中心に辿り着いたときにきっとわかる。
中身は、誰もが反論する事のできない崇高で絶対的なたったひとつの真実なんかではなく、空洞だと。
自分がポツンとその中にいるだけだ。
お笑いは好きだけど、それにしてもそこまで、崇め奉る必要があっただろうか。
スポーツ観戦は好きだけど、メジャーで活躍する事、海外で活躍することに、果たして本当にあそこまで法外な金銭的価値があったのか。
政治家はどんな悪いことをしようが、なんだかんだ自分たちはその決定に必ず従わなくてはいけない
どうしてそんな理不尽を、今まで許容することが出来たんだろう?

あの声高にワクチンを推奨していた人たちは、本当にわかっててワクチンを推進していたのか。
そりゃ国から選ばれたインフルエンサーとしてお金儲けしたことに一抹のやましさはあれど、本当に自分はいいことをしている、って思っていたんじゃないのか。
そこに乗っかって、いい人になることを選んだ人、事を荒立てるよりも丸く収めることを選んだ人全てが、自分はほら、こんなに善良でいい人だって思っていたんじゃないのか。

それは、すべての命を平等に捉える温かさに欠けていなかったか。
自分の在り方よりも目先のお金、今の保身。自分自身を長い人生というスパンで本心から大切にする精神に欠けていなかったか。
机上の空論で、ただ自分が信じ込んだ理想、正しいと思える正義や結論があって、
社会全体を、「分かっている」「選ばれし」「人とは違う自分」こそが
導いて啓蒙してあげて、流れを作ってあげる。
だから自分は正しいことをしている、というような不気味に肥大した傲慢さがなかったか。

「はだしのゲン」より


絶対におかしい、と堰が切って落とされたとき、それは恐怖に変わるだろう。

自分は愚民を啓蒙する側の、選ばれた先導者だって自認してワクチンを声高に推奨してきたインフルエンサーたちは、これからどうなるのだろう。
彼らは自分が、ただのトカゲの尻尾の先についてた埃程度の存在でしかなく、
利用されただけのお馬鹿で傲慢な、いやらしい一般人だと、自分を改め認めることが出来るのだろうか。
もう、黒いネクタイをつけて一通り謝罪動画を出せば今まで通り、偉そうに愚民に意見して喝采を浴びる立ち位置に立ち続けることが出来るなんて、
そんな大それた夢は描けない段階に来ていることに、気が付いているだろうか。

それでも、みんな同じ顔をする。

彼らは膝をつくことはない。
周囲の意見に耳を傾けることもなく、永遠に悪手を続ける。
自分は被害者であり、今更、あんな昔のちょっとした悪ふざけや嘘で、ちょろまかしたお金で、自分が糾弾される意味が本気で分からない
彼らには分からない。
今までずーっとこのやり方で生きてきた。
他の人には決して出来ないほど頑張って、成し遂げてきた。
そりゃあ完璧ではない。清廉潔白とはいかないけれど、生きていくってそういうことだったし、自分と同じようなやり方で自分なんかよりずっと悪どいことやってきた人間は五万といる。
そいつらはみんな、英雄か何かのような顔をしてうまいこと天国に滑り込んだ。
それなのに、そいつらを差し置いて何故自分だけが責められるのか。
貢献して来たこと、みんなのためにやったことだってたくさんあったのに、
何故そっちの側面をもっと評価して相殺にしてくれないのか?

きっとワクチンに関わった彼らも、お決まりのあの同じ顔になって怒り出す。
いつかきっとみんな自分の功績を評価してくれる日が来る、って文句を言って、最後までそれを貫くのだ。
そして、そんなこれまでの在り方を、自分を、トチ狂っていたと認められない人、
騙されていたことを、間違えていたことを、本当は自分も苦しかった、本意ではなかったのだと分かれない人は、
時代の残骸となってここに、置いていかれる。


ママ友と話していているとよく、「男ってほんと、気が利かないよね」というところに話が行き着くことがある。
最近、SNSなんかで良好な夫婦関係をテーマにしているような発信も、やっぱりこの、「うちの旦那は男なのにこんなに気がきくよ」という行動を取り上げているものが多い。
どれほど顔がイケメンか、なんて角度で発信しても、その人をイケメンと感じるのか、チャラいと感じるのか、濃すぎると感じるか、それはそれぞれに感覚の違いがある。
かと言って、お花をくれました、セクシーで小洒落た会話ができます、レディーファーストです、
みたいな日本人離れした軽妙洒脱なイケメンはともすると、
まるでギャグみたいに軽く見えて、日本人女性の深くにはイマイチ刺さらない。
それよりも、何と言ってもやっぱり、「気がきく」男

日本人なら誰もが知ってる、秀吉の立身出世のエピソード。
雪のある日、足を差し入れた自分の草履が温かいことに気づいた信長が、”気がきくやつ”だと秀吉を重用したという…

女が気がきくのは当たり前。けど男のくせに気がきくよ、という付加価値
まあ、その言い方も如何かと思うけど、そんな苦情もこの燦然と輝くパワーワードの前には霞んでしまう。
この、日本人特有の「気がきく」「空気が読める」信仰は一体、どこからやって来るのだろう。

「気がきく」という状況は何かと紐解けば、
「言ってないのに」「頼んでないのに」気づいて先回りしてやってくれた、というところに重要なポイントがある。
頼めばなんでもやってくれる男というのは、「優しいよねー」という当たり障りのない評価は得られても、わざわざSNSで発信するほどの感動はうまない。つまり、刺さらない。
どうしてここまで「気がきく」「空気が読める」ことを愛するのかといえば、
それは、普段もはや無意識レベルで私たちみんなが互いに、「気を利かせている」からだ。

私たちは常日頃いつも、自分のことよりも相手の気持ちがどうかばかりを考えている。
そして(私はそのことを自覚できるようになるまで何年もかかったのだが)実はそこに、ものすごいストレスを感じている。
自分を自分がないがしろにしていることに、忿怒している。
それが、(自分はこんなに相手の気持ちを考えているのに)気が利かない、空気を読めない、と他人の動向にイライラする気持ちを誘発し、一つ一つ積み重なって、社会的な厳しい同調圧力に変わっていく。

先述の着物を例に引けば、
目の前の女性が、袂に仕込んだハート柄を、こちらに気づかせようとピラピラ振り回し始めたら、どうだろう。

自分の気持ちをピタリと掴み取り、それを着物でピタリと表現できた瞬間、私たちの中には、心地の良い幸福感が生まれる。
しかしそれを、相手にもわかってほしい、伝わってほしい、その自分の健気さに反応してほしい、という思念が入った途端、それは何かドロドロした気持ちの悪いエネルギーに変質してしまう。
男性側がやれば、キモって思われるし、女性側がやれば、こいつメンヘラ、って事になる。

分かっているのに私たちは、「気がきく」「空気が読める」ことを相手に求めるのをやめられない。自分が本当は不本意ながらそれを徹頭徹尾やり抜いているのだから、あなたもそうあるべきだ、という渇望から抜けられない。
互いを縛りあい、こうやってこの国は、気づかぬうちに世界でも有数の、同調圧力大国アダルトチルドレン帝国になってしまった。

「掴んだ」と「(言わないけど)気づいて欲しい」の間。
この境界線を感知するのは、実は意識しなければ本当に難しい。
もし秀吉が、草履を懐から取り出して
「上様、私めが温めておきました」なんて柔媚な視線で草履を信長に差し出していたら。
ゾワった信長に「このうつけが!」って切り捨てられて、歴史が変わっていたかも知れない。
茶道然り、武道然り、書写然り。
卓越した感受性を、自分がたった今どう感じているか、それを感じ切る喜びに振り分け、集中し切ることができていたはずの日本人が、
他人はどう思っているか、他人に今、自分がどう思われているか、に意識を明け渡して行く。

マスクをするのは、結局、他人にどう思われるかが怖いから。
ワクチンを打つのも、周りの人の命を脅かしてると批判されるのが怖いから。
他人のため、他人の気持ちを考えて行動するということは、一見すれば聞こえはいい。
しかし突き詰めればそれは、相手にも、「さあ、あなたも私の気持ちを考えて!」と強要し、相手の行動をコントロールすることを意味する。
対して、自分の気持ちを考える、自分のために自分が行動するという原理を突き詰めると、そこには、相手にもその人本来の思いのために行動する自由を、認めてあげるというにつながっていくのだ。

自身の感覚につながる能力が卓越していたはずの日本人が奪われてしまったもの。
画一的で、ロボットみたいに教科書通りのいい人であること、お利口さんであることを目指すこと。
他人の気持ちばかり考えて配慮して、自分の本心、本当の気持ちから乖離してしまうこと。

そうやって自分の感覚から離れていくから、
自分は涼しい部屋の中にいて、タブレットの前で、
今日は何人死んだか、いくらの武器弾薬を損失したかを計算しているくせに、
嫌がる国民をとっ捕まえては、生きて帰れる保証もない前線に送り込むなんてことが出来るのだ。
そういう国を、侵略されててかわいそうだから、私たちが金銭的支援をしてもっと戦争させてあげましょう、なんてバグった結論がまかり通るのだ。

この世は根本から、トチ狂ってる。




TolandVlogから三部作。
日本は最大にして最後の切り札を持っている


この国には、何重にも複雑に張り巡らされたがある。
自民党大嫌い、憲法9条を守れ、と言いながら、そのせっせと担いだ神輿の上に、大嫌いなはずの安倍晋三がのっていることにいつまでも気づかない左翼たち。
戦争大好き、武装して何が何でも憎っくき中国をぶっ叩きたい、国粋、保守を名乗る人たち。
その誰もが、自分たちこそが正しいことをしている、自分は国のこと、将来の子供達のことを考えてあげている善良な人間だ、と信じている。
そして、早く周囲をなんとか説得しなければ大変だ、と思っている。

分かってしまったから終わり、ではない。
まだまだ、その先に、私たちの知らない続きがある。
誰も結論を知っている人はいない。

アメリカは今、認知症の老人をトップに据えたまま、内部から崩壊の危機に向かっている。
もはや世界の警察だのと横柄に構えている段階は過ぎている。
目下、次の大統領選を制すると言われるトランプ前大統領は、すでに在日米軍を全て日本から引き上げる構想を持っているのではないか。
それでもやっぱり最後は私たちが、全てを学び直して、自分で決断しなければいけない。

これから、私たちがきっと肝に命じておかなくてはいけないことがある。
分かりやすい虐待やパワハラやイジメに体罰。
事件になり糾弾される工程を一つずつ学んで、私たちは今、ようやくそれが自分の精神を傷つける行為だ、と怒れるようになったて来た。
人昔前なら、芸能界やスポーツの世界だってなんだって、今よりよっぽどやりたい放題だっただろうし、私たちもたとえ学校で先生に殴られても文句を言うなんていう文化は存在しなかった。

そして、被害にあった人が、「そんな被害に合うような行いをしていたお前こそが悪い」って加害者から糾弾され、罪悪感を植え付けられる、セカンドレイプという行為も学んだ。
そうやってあまりにひどい目にあうと、私たちの精神は乖離する。
乖離とはどういう現象かといえば、
ショックな出来事が起きた時に、出来事そのものの時系列についての記憶とその時に感じた激情を、切り離してしまうことだ。
人間の精神は、精神が壊れるほどのショックを受けると、自身の心を守るため、今自分がどう感じたかを、感情から一時的に分離して崩壊を防ぐのだ。

ワクチンは強制ではなかった。自己責任です。
ワクチンを奪い合って打ち、自分だけが助かろうと躍起になってた人たちこそが、
社会的な同調圧力を作っていた加害者だ。

そうやって自分たちを棚に上げ、被害者を加害者に仕立て糾弾する。
それがいつもの彼らのやり方だ。
それを、胸に刻んでおくこと。


私たちはあまりに未熟で、それらを一つ一つマニュアル化して、これはパワハラ、これはセクハラ、これはイジメ、これは虐待、って
明文化してもらわなければ、怒ってもいい場面なのか逆らってもいいのか、
自力で判断が出来ないところまでもう、脳みそを破壊されてしまっている。
壊れ、戦う気力も動機も見失い、どうせ逆らえないと刷り込まれ、奴隷化してしまっている。

私たちが、明治維新やらGHQやら、大きな分岐点で色々なものを簡単に奪われてしまったのは、
一つには、あまりにそれらが当たり前すぎて、きちんとそれを分析していなかったからだ。
でも今なら振り返って、それを丁寧に考証することが出来る。
着物が古臭くてダサくて、洋服は新しい。
痩せてて長身で、足が長ければ長いほどかっこいい。
英語が話せなければ馬鹿にされる。
お前が悪かったのだから、原爆でどれほどひどい目に遭っても当たり前。
一体、何処からそうなったのか?

あまりに無防備にお人好しに自分たちの文化を惜しみなくご開陳し、外から分析した人に操作され、洗脳され奪われてしまった。
根幹にあった問題は、どうやったら人間の精神を壊せるか、壊してその後、意のままに操れるかというノウハウを熟知し、戦略的に使っていた人間がいるということだ。

そのノウハウは広く、脈々と受け継がれてしまい、すでに社会全体に巣食っている。そして不幸にもその環境で育った人間は、そのトラウマを抱え、自分がやられたのと同じことを無自覚に他者や次世代に行うことでトラウマの記憶を回避しようとする。
そういう人間の性質を利用され、自動的に世代を超えて伝播して、そうやって今の世界が成り立ってしまっているということ。



しかし彼らの手口はもう出尽くしたし、私たちはそれを、経験し尽くした。
今度は私たちがそれを研究し、今度こそ二度と同じ手をくわぬよう対策する番だ。


本当は、日本人って本気で怒ったらものすごく怖い民族だと思う。
恐怖を乗り越え怒り出した人を見て、
周囲もだんだん、あれ?それって怒ってもいい場面なの?って怒り始める。
そうやって世界が、変わり始める。

GHQがあったからこそ。あの世界大戦も。年金問題も。失われた30年も。コロナも。
悲惨な歴史があり、それでもそこで生きて未来へ未来へ紡いでくれた人たちがいたからこそ。それがあったからこそ。
今、私たちはそこから学び、ここに辿り着けた、って
きっと私たちは過去からの壮大な時間差スーパーキラーパスを受け取ることになる。
まもなく。

簡単なことではない。
乖離によって切り離されてしまった感情を、出来事にもう一度紐付けることは大変な時間と労力、そして覚悟のいる作業だ。
しかし、それでもきっと、その恐怖と怒りの放出を乗り越え終えた私たちは、歴史上、誰も感じたことのないほどの感動を経験する。
乖離を解消するということは、例えそれが小さなものでも、解消した瞬間から大きく見える世界が転換していく、一つ一つ、信じられないくらいパワフルな行為だからだ。


日本は今、円安に乗って各地に観光客が溢れ、世界中で空前の日本ブームを引き起こしている。
以前はせいぜい、巨大チェーンのラーメン屋に押しかけて来るくらいだった観光客が、最近ではあちこちの桜を見に現れ、どうやって調べたか、都内でもマニアックな撮影スポットに、日本人みたいに粛々と行列を作って写真を撮影している。

外国人が評する日本人は概して、優しい、親切勤勉で規律に厳しく、静か
だけどそれって、本当なんだろうか。

海外では、日本人は最近「妖精」なんて呼ばれることがある、という話を聞いた。
サービスのよいお店にはわらわらと集まってきて、小さくて大人しく、
英語で話しかけると忍者のように素早く逃げていく。
何があっても文句も言わない代わりに、嫌なことがあると何も言わずにスーッといなくなって二度と現れない。

その話を聞いて三日ぐらいお腹を抱えて笑った私は、先日行われた浅草の三社祭のニュースを見て、さらに笑った。
そこには、年に一度の祭りに命をかける勇ましい法被を羽織った人たちの姿。
それぞれの地元の地名を背中に背負って、その地区特有の掛け声を叫び、威勢たくましく汗を飛ばし体をぶつけ合いながら御輿を担いで練り歩く。

電車では大声を出してはいけない、
街にゴミ箱がないからと言ってポイ捨てしてはいけない、
列には文句言わずに静かに並べ、
建物に入るときは靴を脱げ、
そんな様々な厳しい日本のガイドブックを読み込んで、自分は絶対失礼な「ガイジン」にならないように、って緊張して日本にやって来た外人が、
え?これが妖精?一体この妖精たちはどこに隠れていたんだ?この人たちはいったい、何をやってるんだ?
目を白黒させ、頭をバグらせ、逞しい大腿四頭筋をギリギリまで見せつけた男性陣の前を、顔を伏せてウロウロ通り過ぎる。どこを写真に収めればいいのかも分からないまま、仕方なく御輿の先っぽなんか写真に撮っているのが本当におかしかったのだ。


昨年行われた、アジアプロ野球チャンピオンシップ。
台湾V.S.オーストラリアの3位決定戦でのこと。
もともとプロ野球人気の定着していないオーストラリアチームは、自国の観客による応援団が他の参加国のようにスタジアムに来てくれないという問題を抱えていた。
そこで開催国である日本の野球ファンに、SNSを使って自分たちのことも応援して欲しいと依頼した、というところまでが事の経緯。
結局、オーストラリアの観客席には最終、日本人300人ほどが集結し即席の応援団を作り、大声援を送った、という報道があった。

日本人はなんて優しいんだ!なんて、感動エピソードとして紹介されていたが、
しかしなぜ、たった一人の人間から派生してわらわらと集まった300人が、即席の応援などできたのだろうか。


これを見れば、オーストラリアは応援団がいなくて「かわいそうだから」応援してあげよう、そうやって集まった日本人の、優しいおもてなしの心温まるエピソード、なんていう切り口は、事実を全く捉えていないことがわかる。
彼らは生粋の野球オタクであり、歴代のさまざまな球団にいた、一人一人のチームメイトの応援歌を熟知している。そしてそれらを駆使して、バッターボックスに入ったオーストラリア選手の名前とそれらをつなげ替え歌にして、即席の大応援団をその場で作り上げていたのだ。

野球のことなんて何も分からない私には、ここで流れる曲は一つも歌えないし、どんな由来なのかも分からない。
にわか野球ファンには決して入れない、玄人集団。
そこに入れるという自負のある者にとって、それを一緒に歌い正確な手拍子を完璧に決める、こんな盛大な宴が楽しくなかったわけがない。そこに参加出来ちゃうことが、ちょっと誇らしくなかったはずがない。
まさに日本の誇る、オタク文化
これを、規律正しく優しい、さすが日本人、と総括するのはあまりに皮相的だ。
楽しさこそがエネルギー。
奉仕やおもてなしを凌駕する、これこそが日本人的で純粋な「応援」。
むしろ優しさからお情けでやってあげた、なんて話より、何万倍も楽しくて感動的だ。


やっぱりオタク精神って、私たち日本人のDNAに深く刻み込まれたものなのじゃないか。最近の日本人が自認する、あるいは海外から評される、大人しく人に迷惑をかけず決して怒らない日本人という分析は、考えれば考えるほど何か違和感を覚える。
一昔前の日本のテレビのお笑いなんて、本当に下品な下ネタでいっぱいだった。
八百万の神様を喜ばせるため、って言いながら全国各地に季節を問わずにお祭りがあるのは結局、それを言い訳に服脱いで暴れて発散して、宴会がしたいから。
お酒飲みたいから。
私たちの根本って、本当はもっと下品で庶民的でそこに遊びがあって、もっと洒落てて、目的なんかなくて、
シンとした、深い世界。
そこに入りたいものは拒まない、しかしそれを知らない人は入れない、
だからこそ奥深くて、もっと楽しいものなんじゃないか。


武四郎涅槃図(撮影許可のある場所で撮影)

先日、明治を代表する好古家、松浦武四郎のお宝を見に行って来た。
自分の蒐集した数々のコレクションを、それにピタリと揃う木箱を作って収めたり、集めたお気に入りの古物を、わざわざ自分で絵入り目録にまでまとめて刊行したり。
お宝の貴重さよりも、とにかく武四郎の熱すぎる蒐集愛が楽しい展覧だったのだが、その中でもひときわ目立っていたのが、この、武四郎涅槃図

自分の死後、自らが涅槃となったところを釈迦の物語に準え、周りに実際に自分に所縁の人や、集めた実在の古物を所狭しと並べた姿を描き、掛け軸にする。涅槃に扮した武四郎の首には、お気に入りの大首飾り、手にはお約束の、火の用心と書かれた刻煙草入れ
あれはおれの涅槃の図じゃ。樹の下にわしが寝ておる。あのお公家さんは岩倉公じゃ。かわいがった犬も猫もおるのじゃ。
そういって横たわる武四郎の表情は、なんとも柔和で幸せそうである。

自慢の、縄文時代の大首飾り。

画鬼と呼ばれた絵師、河鍋暁斎に何度も注文をつけ、自慢のお宝の描写を納得いくまで描き直させたため、ついには暁斎に「嫌味じじい」などと陰口を言われる熱の入れよう。
どのお宝も、死んだ武四郎を前にしてほんのり悲しげな表情を浮かべているのが、なんとも可笑しい。
この絵には、それほどに一つ一つを、一人一人を、とことんまで愛し抜いた、微笑ましいほどの情熱がある。
遊びがある。

この、どこまでも自分の”好き”を追求していってしまうオタク精神
別にオタクってアニメに特化したことではなくて、思い返せばあらゆるところに
転がっているものだ。
着物も然り。刀も然り。お茶も野球もポケモンもゲームも音楽も、なんでもそうだ。
今じゃ高尚な文化みたいな顔している和歌だって大元を正せば、で有名な地名とあなたを待ちわびる私、みたいな情景をかけて詠んで見せてそれを上手い!って喜ぶ、要は駄洒落だ。その和歌に別の高名な和歌や、詠み人の人生紆余曲折の物語や心情を連想させる言葉を上手く絡めたりして、分かる人にしかわからない世界が曼荼羅の如く広がっていく。
だからこそ、それがピンと分かるもの同士が集うと、キャッキャしてしまう。
分かる人とわからない人がいるからこそ、分かったもの同士、クフクフとこみあげるような楽しさ、共感できる、共有できる喜びが生まれる。
アイドルの舞台の最前線で何かの棒を振り回して踊り狂っているオタクと同じ。
日本人はどこにでも、愛を感じて凝って極めて集まって、そうやって一大文化を作り上げてしまう。

日本人の根底にはこの、オタク魂がこびりついている。
そしてそれが分かる人同士が集まるのが楽しくて、
酒を飲みたくて、あらゆる季節にかこつけては宴を催す。
神様のため、って言いながら年一命をかけて、あらゆる地域で祭りを行う。

先日、久しぶりに学生時代の友人たちに誘われて、夜の食事会に出かけて来た。
夜、子供の家に置いて友達と出かけるなんて、実に20年ぶりくらいのことだった。
以前は、一見普通の人に見えるよう振舞いながら、誰とも群れない連れ合わない、周囲の人から見れば謎の、精神的引きこもりを貫いていた。
懲りずに誘ってくれる友達がいて、「その人たちに会っても自分はどうせ」なんて思っていた殻を、最近ようやく、一つ一つクリアできるようになった。

それでも、待ち合わせのためのLINEをやり取りしているだけで、苦しくなる。
自分が送ったメッセージがグループラインに投下され、誰にどんな気持ちを抱かせたか、返信が少し来ないだけで自分のどこに原因があるのかずっと考えてしまう。
どこにいてもいつも感じている、アウェイ感
過剰に緊張し、気を使っていないと襲って来る恐怖
それらの懐かしい感覚を、そうそう、これこれ、昔はいつもこの針の筵にいるような感覚がデフォルトで生きていたんだ、って、改めて俯瞰して懐かしく感じた。

以前ならそこにさらに、明け方まで続く不毛な反省会がセットだったけれど、実際に会って見たら、久しぶりの再会はホッとするほど楽しかった。


こんな風になるずっと前は、世界中と友達にならなきゃいけない勢いで、誰とでも友達になって、呼ばれればどこのどんな会合にも顔を出していた。
いつか、自分が膨れ上がってパチンと弾けて、そんな嘘の自分を続けられなくなっていた。
引きこもりを一通りやり切って、かつて感じていた過剰な緊張を一つずつ解き、嫌われてはいけないという恐怖を感じ切ってしまったら、それがなくなった先に見えてくるものは、以前とは全く異なる自分
ああ、こんな風にこちゃこちゃラインに縛られ気を使うのを、私は実は煩わしいと思っていたんだ。
一人の静かな時間が、こんなに好きだったんだ。知らなかった。
かつての、スケジュール帳はいつでも予定でパンパンだった自分を思い出して、
あれは一体なんだったんだろうって私は自分に笑ってしまう。

自分とはなんなのか。
私たちは、そのことこそが一番、わかっていない。
そして、人がどう感じるかばっかりに集中して、いい人であろうとして、
どんどん苦しくなって生き方、生きる意味を見失っていく。

私たちはこれから、自分で考えて来た「自分とはおおよそこのような人間だ」というイメージそのものから捉え直し、解析し、再解釈する必要があるのかも知れない。

この前は着物を着て、一人で夕方の映画なんか見に行ってきた。
そんなことしたのは生まれて初めてのことで、とんでもない不良になったみたいで、ものすごい開放感を感じた。
いいお母さんでいなければ、って楽しいことも我慢して、毎日欠かさず規則正しい生活をして、家の中のことを一手にこなし、決まった時間栄養や好き嫌い、冷蔵庫の残りを考えた料理を作る。
さあ、私はここまで完璧に自分の人生を犠牲にしてるのだから、苦しい勉強をやり遂げていい学校に入りなさいね?私の気持ちを察してね?
自分がされて、一番嫌だったことを自分もつい先ごろまで、無自覚に子供達にやっていた。
映画の帰り道、ビルの合間に反射する最高の夕焼けを見上げながらしみじみ、そんなことを考える。


一つ一つ、確かめていく。
行って見て、会って見て、自分に刺激を与えて、自分が何をやりたいのか、何が好きなのか、実は嫌いだったのかを確かめる。

家族であろうが親友であろうが、みんな違うのだ。わかり合うことはないのだ。
みんな各々が違うことを考えながら、違うペースで、違う方向を見ながら、違うものを楽しむ。
その静かなの時間があるからこそ、違うことを考えている人を見るのが楽しくなる。ワクワクして止まらなくなる。
そして自分と同じ稀有なオタクに出会った時、そんなオタクと宴をして瞬間、その喜びを共有できたとき、楽しくてたまらない、そういうハレの気分を味わえる。

そう言えば、北海道の名付け親でもあった前述の武四郎は、謎の古来の歩行法を身につけていて、それであの広大な北海道を走破したという話がある。
アイヌと馴染み、アイヌの言葉を参考に各地に地名を付けていった。そのときの資料も今となっては歴史的に大変貴重なものだ。
しかしアイヌを迫害しようとする当時の政府の方針に反対し、武四郎は職を辞した。

私たちは誰も等しく、加害者であり被害者だ。
そんな私たちでも、先人たちは裁くことなく無限に広がるオタクの世界を紡いで、キラーパスを送ってくれる。
あなたは一体、何オタクなのか。この国には無限にオタクの選択肢が用意されている。

楽しいではないか。
一つ一つ。
やりたそうなことをやってみる。
行きたい場所に行ってみる。
会いたい人に、会ってみる。
その人は私の、会いたい人のなのか。
深い話ができるのか、分かり合えるのか、同じオタクなのか。
その人と会うと、ハレの気分は味わえるのか。
人から如何に、かっこいい、いい人だ、まともな人だ、お金持ちそうだ、と思われるか、じゃなくて、
何をしているときの自分が、カッコいいか、か、婆娑羅か、しびれるか。


私には、いつも頭に浮かんでいる、約束の場所がある。
そこまで行くように、いつも励まされている。
並木のトンネルをくぐっていった先に小さな花々が咲きほこる草原がある。
その先は崖になっていて、向こうに綺麗な海が見える。
その景色は明確に見えているのだけれど、あれは本当に、実在する場所なのだろうか。
日本の、まだ行ったことのない何処かなのか。
世界のどこかにあるのか、それともこれから未来どこかに出現する場所なのか。
あるいはあれが、天国というやつなのか。
そこに行けば、私の会いたかった人がいて、私はハレを味わうのだろうか。
もうとっくには始まっていて、私がお待たせしているのか。
それともやっと辿り着いても、下戸の私がひとりぼっちで宴の用意をするのだろうか。


きっと青い鳥の物語のように、一生をかけてそれを探しに行くのが生きるということなのだ。
自分の美学を見つけ、自分の生き方を探し、自分という人間は何をしたら嬉しいのか一つ一つ、確かめに行く。

人様がどう感じていらっしゃるか、人様をどうこうして差し上げようなんて、そんなことにかまけてる時間は私たちにはないのだ。
全力で自分という人間を探求しても、死ぬまでに自分が到達したかった地に間に合うかどうかなんて、そんな保証はないのだから。


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