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秋の夜長に銀河を旅する。

出会ったのは小学生のときだったと思う。
はじめましては本じゃなかった。

当時母が名著の朗読CDセットを奮発して買ったと自慢げに見せてきた。
二段にギッシリと収納されたそこには名著のタイトルがずらりと並んでいた。
リビング窓際のチェストに置かれたそれはいつ見ても存在感があった。
小さな図書館。
見ているだけでワクワクしてくる。

どれを聴こうかと決めかねている私に、この辺りが子ども向けだよと母がいくつかピックアップしてくれた。

『ピーターパン』
『星の王子さま』
『不思議の国のアリス』

どれも面白かった。
私のお気に入りはピーターパンだった。
ピーターパンと子どもたちとのやりとりが好きで何回も聴いた。

ただもうひとつだけ
私には気になるタイトルの作品があった。


『銀河鉄道の夜』

児童文学は主人公がタイトルになっているものが多いから、そこからいろいろと想像するのだけど、この作品だけは雰囲気が違うなと思った。
そのスケールの大きさに興味がわいた。

聴きもしないのにタイトルに惹かれてしょうがなくて、
私の中の「気になるアイツ」的な存在だった。
CDは50音順に並べられていたけど、そのお話だけはいつでも見つけられる場所に置いておきたい。
そんな気持ちで、下段のいちばん端の方に順番を入れ替えた覚えがある。

しばらくして実際に聴いてみたけど、途中でいつも眠くなってしまってなかなか最後までたどり着けなかった。
大きくなってからも、読むたびに「どういうこと?」が頭の中に駆け巡って何度も挫折した。

今回、課題図書の中にこの作品が入っているのを知って私の中の書きたい欲が走り出した。

書くことを前提に、もう一度読んでみようと思った。
小学生のころから大嫌いだった読書感想文というものを自分から書こうだなんて、私はどうしちゃったんだろうと不思議だ。

自分の中でどんな変化があったのだろう。
それも一緒に掘り起こしてみたい。

そしてもう一度、私の目と思考でこの物語を存分に味わってみようと思う。

✳︎

星祭りの夜、気が付くとジョバンニはいつのまにか銀河鉄道に乗っていた。そこには親友のカムパネルラがいて一緒に銀河を旅することになる。
ふたりのみる景色は美しく幻想的で不思議な世界。
南十字へ向かうその列車で、いろんな人と出会いながらほんとうの幸いを探していく。

色彩の表現

あらためて読み返すと、色彩の表現が多く使われていることに気づく。
賢治は豊かな自然をテーマとする作品も数々残しているし不思議ではないのだろうけど、、いやにしても多いなと思った。
赤を何回以上使うとか自分で課してる?
(んなわけない)

黒いくるみ、黒い甲虫、黒い門、黒い丘
赤ひげ、赤い帽子。。。

青や白、黄色なんかは、銀河がテーマだし煌びやかな雰囲気で使うのも分かるけど、わざわざ表記する必要もなさそうな所でも頻出しているのが気になった。

幻想的なストーリーではあるものの、このように名詞に色が置かれることで、現実離れした夢物語感だけで終わらない何かを感じさせる。

『桔梗いろの空』という表現は3回くらい出てきた。
桔梗は青色と紫色を足した感じの優しい色。

個人的にこの表現が世界観を引き立たせていて好きだなぁと思った。

✳︎

語り手は三人称であるけど、その視点はほぼジョバンニだ。
カムパネルラの心理描写はほとんど書かれていない。

ジョバンニはカムパネルラとの旅の行程に、色をひとつひとつ加えることで自身の記憶を丁寧に焼き付けているような感じがする。

現実に戻れば休みなく働き、母の世話をして、父は帰ってこず、クラスメイトからは冷やかしを受け、、という毎日だ。

そんな日常から解き放たれたジョバンニが、心の友であるカムパネルラと旅をする。
それも銀河の旅だ。

幻であって欲しくないと思うに違いない。


鳥を捕る人

ジョバンニとカムパネルラが旅をする中で、『鳥を捕まえる商売』をしているという鳥捕りと出会う。
私が久しぶりに読んで一番印象に残ったのがこのシーンだった。

鳥を捕まえて満足そうに見せたり、これで稼いでいるんだと事細かに説明したり。いろんな表情を見せる面白い人物だ。
作中では「親切そう」とは書かれているものの、ジョバンニたちは一定の距離間を保ちながらやりとりしているようにも見える。

正直、なぜ鳥捕りがこの物語に出てくるのか読み終わった今でもよく分からない。

ただ、この鳥捕りという人物は、現代に生きる私たちに一番近い存在のような気がする。

3人の切符

乗り合わせた3人が車掌に切符を見せるシーンがある。
書いてあるのは、

鳥捕り → 小さな紙きれ
カムパネルラ → ねずみ色の切符
ジョバンニ → はがきくらいの大きさの緑色の紙

カムパネルラの切符は『片道の乗車券』だろう。
もう決してこちら側には戻ってこられない。
結末を知っていれば、ここの意味はある程度想像できる。

その片道分の旅を共にするジョバンニは、どこかうっすらとその終わりを予感しているような描写もある。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。」

「カムパネルラ、僕たちいっしょに行こうねえ」

ああこれ、絶対カムパネルラどっか行っちゃうやつだ。。
これは子どもの頃でも薄々察してた。。

ジョバンニの持つ緑色の切符は、『往復乗車券』のような意味合いだろう。
死者と同じ駅までいくことはできても、そこからひとり現実へ帰ることが暗示されている。

持たされた切符でそれぞれの背負う運命が垣間見える重要なシーンだ。

ジョバンニの変化

ジョバンニの持つ切符を見た鳥捕りは大そう驚いた様子でテンション高めに描かれている。

商売人として忙しなく働き、獲物を捕らえたと喜び、ときに親切にしたり、はたまた隣人の持つ切符を羨ましく見たり。。

そうやって忙しく表情を変える鳥捕りを見て、ジョバンニは何だかいたたまれない気持ちになる。

最初は鳥捕りのことをどこか邪魔のように感じていたとジョバンニはカムパネルラに白状している。素直。
けれども次第に、この鳥捕りのことを何とかしてあげたい、、などと思うようになるのだ。

「もうこの人のほんとうの幸になるなら、自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものはいったい何ですかと訊こうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうしようかと考えてふり返って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りがいませんでした。」

ここで大事なテーマである
『ほんとうのさいわい』というワードが出てくる。

沈没した船

途中、海難事故に遭ったという3人が乗車してくる。
姉弟とその家庭教師である青年だ。
彼が苦し紛れにここに来た経緯を語る。

船が氷山にぶつかって沈没してしまったこと。
懸命に救助するもボートにはとても乗れそうになかったこと。
前にいる乗客を押し退ければ助かったかもしれないこと。
しかし、それができなかったこと。
いっそこのまま3人で神の元へ行くことが本当の幸いと考えたこと。
子ばかりが乗るボートを両親が見送る姿に胸が引き裂かれる思いであったこと。

これは当時実際に起きたタイタニック号のエピソードだ。

ここでまた、「ほんとうのさいわいって何だろう」という問答がなされ、会話は信仰する神様まで発展する。

蠍の火

姉弟の姉である女の子が一匹の蠍のエピソードを話す。

蠍は毎日小さな虫たちを食べながら生きていた。
しかし、ある日いたちに見つかってしまい食べられそうになる。
蠍は逃げるも井戸へ落ちてしまう。しかしどうやっても上がれそうにない。そして蠍は最期にいくつもの命を殺してきた自身の命の意味を嘆く。

「どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらんください。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸のために私のからだをおつかいください。」

そうして蠍は真っ赤な火になって燃え、今も夜空に輝きを与え続けている。
というお話だ。

ほんとうのさいわい

このお話の結末を書いてしまうと、サウザンクロス(南十字)の先でカムパネルラが姿を消してしまい、ジョバンニは丘の上で目を覚ます。
丘を降り川へ向かうと、子どもが川に落ちたと騒ぎになっている。
聞くとザネリという友人を助けるために川へ入ったカンパネルラがもう45分経っても岸に上がってこないという。


この物語の本当の幸いとはなんだろう。

ジョバンニが鳥捕りに対して抱いた感情。
海難事故で犠牲になった3人。
蠍が最期に祈ったこと。
そして、カムパネルラが友人を助けようとして亡くなってしまうという事実。


他者へ尽くすこと。
みんなの幸せのために。
おそらく賢治の中でそのような答えが出ているのだろう。

別の作品では
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
とも言っている。

この物語の中でも、死者を神格化させてきれいに終わらせることもできたはずだ。

が、このお話はそのような形では終わらない。

「ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいで、なんにも言えずに博士の前をはなれて、早くお母さんに牛乳を持って行って、お父さんの帰ることを知らせようと思うと、もういちもくさんに河原を街の方へ走りました。」


ジョバンニが何も言えなくなった思いを抱えたまま夜の道を走り抜けるシーンで終わるのだ。

賢治は理想とする姿を描きながらも、どこかそうなりきれない自分を表しているようにも感じる。
そして、その「ほんとう」を最後の最後まで明らかにできなかったんじゃないか。

大切な誰かを思うとき、失うとき、全ての人の幸いを同じように願えるのか。
今日の誰かを生かすというのは、別の誰かの明日を奪うということだ。
人間同士だけの話じゃない。
そのことを、蠍の話が象徴している。

問えば問うほどこの世の理に矛盾を感じながら、それでも活路を見出そうとしたんじゃないか。

この作品を通して、ほんとうの幸せに対する問いを、純度の高い状態のまま全力で私たちに投げかけているんじゃないか。

それは早々に結論を出してしまうより、よっぽど誠実なのかもしれない。
当時賢治が無名だったのならなおさら、自身の信じるものを声高に叫ぶことだってできたはずだ。

自身の宗教観や大切な人の死も大きく影響しているだろう。
実際、賢治は最愛の妹を亡くすという辛い経験をしている。

そんな個人的な想いを吐き出すための作品なら、こちらも分かりやすく受け止めることが出来る。

でも、もはや「昇華させる」みたいな次元の作品ではないのだろう。

そういう意味で、やっぱりこの物語は特別なものだと思う。

折り目のない物語

「折り目のついた」という表現が相応しいのか分からない。
あくまで私のイメージだ。

そういった紙を折り畳む作業は容易でスムーズに事が進む。

分かりやすいメッセージ性というのは、そういう山折り谷折りのようなガイドラインが用意されているイメージだ。
だから読み手の感情も気持ちよく収まるし、笑えるところで笑い、泣けるところで泣けるのだ。
読んだあと「あぁよかった。」という気持ちで終わる。

けどこの物語はそうじゃない。

折り目のついていない真っさらな紙を畳むときの抵抗感や緊張感、責任感、それと似た心境に陥る。

だから私は小さいとき、読みにくかったのだ。
こう読んでくれという書き手のメッセージが分からなかったから。

かけがえのない命
世界の素晴らしさ
他者との共存

など、そういった作者の分かりやすい意図というのが見当たらない。

ただ逆に言うとどんな風にでも折れる。
だからこそ、人それぞれの解釈で折り合いの付け方というのが多様に出る作品でもあると思う。

そしてその分からなさに
「やすやすと消耗されてなるものか」という書き手の気概みたいなものがギチギチに詰め込まれている気がするのだ。

でも物語の性質上、その切実さは描かれる自然の描写や幻想的な空気感で究極にぼやかされている。
実際、賢治が改稿を繰り返すたびにこのお話の輪郭はぼんやりとしていったのだと聞く。

救いようのない仄暗さと、人の希望を見出す柔らかな光が、この物語の奥底で同時に流れているような感覚がある。

それは闇に散りばめられた銀河そのものであるようだ。

道を探して

昔読んだときは、なぜ優しいカムパネルラが死んでしまって、ジョバンニをいじめていたザネリが助かるんだと理不尽に思った。

どうしても「何がどうなった(最初と最後)」にフォーカスしがちだった私の捉え方のせいだろう。
そのコトとコトのあいだには「どのように」という大事な部位があるというのに。

ただ大人になって深く読んでみると、その結末自体にあまり憤りなんかは感じなかった。
虚しさはあるけど。

世の中分からないことだらけで、
正解のないものばかりで、
「分からない」に耐性が付いたというのもある。

私は目的地より、道のほうに興味を持つようになったんだなと思った。

どんな寄り道や遠回りをして、そこに行き着いたのかを知りたいと思うようになったんだ。

文章も、迷いや揺れを感じさせるものが好きだ。
それは紙上に現れる芸術であると思うから。

✳︎

宮沢賢治の書いた『農民芸術概論綱要』で印象的なフレーズがある。

無意識即から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である
髪を長くしコーヒーを呑み空虚に待てる顔つきを見よ
なべての悩みをたきぎと燃やし 
なべての心を心とせよ
風とゆききし 雲からエネルギーをとれ

この書物には賢治の芸術論が書かれている。

内容をかいつまんで話すとこんな感じだ。

***
誰でもひとりの芸術家である。
それを自らの方法で表現し続けるのだ。
それは自身の心から湧き上がるものでなければ意味がない。
焦らずときにはコーヒーでも飲み心を空っぽにして待つのだ。
すべての悩みをたきぎとして燃やせ。
すべての感情は自分自身だ。
風とともに歩み、雲からエネルギーをもらえ。
***

自然を愛したという賢治らしい文章だと思う。
力強い口調の中に芸術への切実さが伝わる。

ここで言う芸術というのは、詩、絵、音楽、舞踊などにとどまらない。
仕事や家事も例外でないだろう。
私たちが働くということに、どれだけ美や芸術性を追求できるかということが書かれている。


この書物は「おれたちはみな農民である。」という文章からはじまる。

芸術を持て あの灰色の労働を燃やせ
ここにはわれら普段の潔く楽しい創造がある


賢治の言う灰色の労働とは何だろう。
きっと、自分の中に美を見出せない仕事のことだ。
誇りが持てず、自らの意思が介入する余地がなく、価値が見出せない労働のことを言っている。

これは職種や属性のことに限らないだろう。
どんな仕事でも、自分なりの美を追求しうる何かを持っているか?ということが言いたいのだと思う。

逆にどれだけ周りから称えられ、認められていても、自身が灰色の労働だと感じたとき、そこに価値は無くなるのではないかと思う。

建築、ファッション、料理、スポーツ
何にだって個人の想いや情熱からはじまる。
そこに美を見出すからこそ、人々が感動し、発展しながら新たなエネルギーが生まれるんじゃないか。

『銀河鉄道の夜』も、私たちが長く深いところで共鳴しうる不思議な魅力を持っている。

だからこそ、これだけ多くの人に語り継がれてきたのだと思う。

永久の未完

圧倒的に胸に迫ってくる、とは言い難い。

でも私は小さい頃から、どこかこの物語にずっと服の裾を引っ張られているような、そんな感覚がある。

忘れてくれるなと優しく訴えかけてくる。

解釈は自由、読み手次第。
もちろんそうであるのだけど、やはりどこか誰もが共有できる何かがある。

自由と共有を堪能できる。
そんな贅沢な読み物だと思う。

晩年まで何度も改稿を繰り返したというこの作品。

今だったら、賢治はどんな結末を用意するだろう。
そんなことを考え巡らすのも面白い。

詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である

(宮沢賢治『農民芸術概論綱要』より)

✳︎

驚いた。
熱が入りすぎて気が付けばnote始めて以来の長文になってしまった。

書きたい気持ちのエネルギーと集中力ってすごいんだな。


私はこの読書感想文を書いたことで、過去の灰色の記憶が銀河に染まった。

自分の思想とこの本に「分からなさ」を尋ねて、探していたものに少しだけ近づいた気がする。


書くために読む、ということの楽しさを知り、
それを自分の中で深く実感できたことが
何より嬉しく思った。


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