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あなたのために言わない
スアーは、心のどこかで気付いていた。
ただ一人愛した彼、ルインとはもう会えないのだと。
前世の記憶を持って、この世に生まれてくる可能性など、決して高くはないのだから。
それでも、待たずにはいられなかった。今日は来るかもしれない。今日は。
そう思って、過ごしてきた。
けれど、彼は来なかった。月日が過ぎ、それでいいと思うようになった。
生まれ変わりを経て、今、彼が幸せでいるとしたら。
ルインの幸せが、自分の幸せ。むざむざ彼の幸せを壊す気はない。
ただ――、
(待つくらいは許されると思ったの)
*
時が経って、スアーは、彼女を好きになってくれた人と結婚して、真珠のようにきれいな女の子を生んだ。
テイラー邸の庭に薔薇が咲いた春、いつもの庭師から、急な流行病で剪定に行けないと連絡があった。庭師は、若いせがれをやりますからと、一人の男性をテイラー邸に向かわせた。
迎え出たスアーは、青年の顔を見て息を呑んだ。
(ルイン――)
スアーを目にしても、青年の表情は変わらなかった。
スアーは、覚えていないのですか、と尋ねようとして、やめた。簡単に庭の剪定の依頼内容を説明した。
青年――ルインは笑い、
「かしこまりました。どうぞ、中でお待ちください」
剪定用の鋏を手に、裏の庭園に向かった。
りりしい背中を潤んだ瞳で見つめ、彼女は唇をかんだ。
昼下がりを過ぎた頃、一通りの仕事を終えた彼に、お茶と菓子を出した。
居間のソファーにぎこちなく腰を下ろして、青年はカップでお茶を飲んだ。
小さな娘が居間に駆け込んでくる。
「ママー、リボンとれたー」
エプロンの裾を引っ張る娘のリボンをスアーは結びなおしてやる。
ルインは微笑んだ。
「かわいい娘さんですね」
ええ、とスアーはいとおしげに娘を見つめ、髪をなでる。もしルインを振り返っていたら、驚いていただろう。彼が顔にたたえるさみしそうな微笑を見て。
夕刻、仕事を終え、ルインは道具を収めた鞄を持って、玄関に立った。
「まだ見習いで庭を整える知識も技術も足りません。力は尽くしましたが、父には及びません。病がよくなったら、もう一度父がご訪問いたします。本日はこのような形で、ご了承ください」
頭を下げた。
「いいえ、とてもきれいに整えてくださってありがとうございます。お父上のガウニエさんにもお伝えになってくださいな」
「ありがとうございます」
「……」
「……」
奇妙な間があいた。
二人は、見つめ合った。
ルインは、覚えていないのですか、と尋ねようとして、やめた。
「別れのご挨拶を、してもよろしいですか」
別れの挨拶は、握手や抱擁などで、この国では一般的なものだ。わざわざ断りを入れた理由を問うことなく、スアーは首肯した。薄い水色の髪が風にさらりと揺れる。
ルインは華奢な彼女の背に手を回す。懐かしい香りと、心地よさ。腕の中の彼女のぬくもりを感じた。きっと、彼女は覚えていない。自分だけが覚えている、記憶と感覚。
(これでいいのだ。前世のことは忘れて、幸福な今を生きていてくれたら)
そっと身を離して笑った。
「どうぞ、お元気で」
重たい鞄を持ち直す。
「はい」
スアーは目を細めた。
ルインは踵を返す。これでいい。自分は、前世の誓いを覚えていた。しかし、スアーには今の幸福がある。
(会えただけで、うれしかった)
彼は振り向くことなく、テイラー邸をあとにした。頬には笑みが浮かんでいた。
彼を見送っていたスアーは、こらえきれず涙をこぼした。
(そうだったのね。やっぱりあなたは)
一瞬の抱擁ですべてがわかった。
(さよなら)
だから彼女は口にしなかった。
(わたしもよ)
春の花が咲くテイラー邸の庭園。
(わたしも、会えただけで、あなたに抱きしめてもらえただけで、うれしかった)
スアーは、しばらく、しずかにしずかに涙を頬に伝わせていた。
了
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