中和(4)
「後輩、わたしが黙って見ているとでも?」
袖をまくる彼とは相反して、留惟には少しの緊迫感もなかった。
「わたしには、他人の生き死になんて関係ないけれど」
広史は、かみそりを引こうとしたと同時に突き飛ばされた。
「あっ」
「口を出さずにはいられないよ」
低く静かな口調には威厳と、威圧感があった。
敗北の二文字が広史の思考に浮かぶ。
「なんで」
「とことん話し尽くして、立ち会っているひとを納得できるなら止めなかったと思うけどね。後輩の今の言い分だけしか聞いていない今現在、わたしは日立くんを止めないといけないと思った」
留惟の言葉は、夕闇前に鳴く烏の声のような色を帯びていた。広史は再びかみそりに手を伸ばそうとする。
また突き飛ばされた。
「わたし、君に未練がないとはとうてい思えない」
厳しい一言だった。
吹奏楽部がまた練習を始めたらしい。楽器の音が校内に広がっていく。
「未練がないなんて、本当に言える?」
言葉の温度がはっきりと変わる。あたたかいほうに。ただただ静かに。
広史の瞳に涙が浮かび上がる。こんなことってあるか、と、痛みが全身に突き刺さる。
「あ」ぽろぽろ泣きながら広史は床に拳を打ち付ける。
「あんたのせいだ! あんたの……」
苦しげに言葉を吐いた。相手は黙っていた。
あんたは、と広史は腿を殴る。
「あんたはいいよな。いなくなるんだから。ぼくの日常にはなんの関わりもなく無責任にいなくなるんだから」
「……」
「あんたのせいだ。あんたのせいだよ!」
無言の相手に、広史は言いつのった。
「あんたのせいで」
――死ねなくなった。
泣き伏した。
留惟は、腰かけていた机から化学薬品ではげが目立つ床に着地すると、広史を残して理科室を出て行った。
彼を残して。
「がんばれ、後輩」という気持ちを残して。
*
三月一日に徳利高校の卒業式は執り行われ、四十八名の生徒が晴れやかな顔でまた新たな道へと踏み出した。
四十七名の生徒が、別れを惜しみながら去った後の人気のない教室で、もう一名、澄野留惟という女子生徒が証書を受け取った。人間関係が得意でない彼女は保健室登校をしていた。クラスに顔を出さないわけではなかったが、一年生の後半に、人間関係のトラブルがあってから、同級生と同じ教室で授業を受けるのが難しくなったのだ。教室に入ろうとすると、腹痛と嘔気に襲われた。
留惟は、担任を始めとする先生に心からお礼を言って、卒業証書を手に校舎を出た。
様様な事があった学び舎をあとにしながら、留惟は心の中であの後輩に語りかけていた。
「がんばれ」
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