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バニラアイスが溶けるころ(同一文章・有料設定)

 お願いです、と声をかけられたのは、偶然だったのだろうか。立ち止まると、紺色のセーラー服の女の子と目が合った。
「お願いします」
 その子は真剣な目で言った。
「私と一緒に死んでください」
 俺は耳を疑った。言葉をなくして、突っ立った。
 夜八時の飲屋街。クラブやバーが建ち並ぶこの通りを、俺はただ歩いていただけだった。どこかで、もう一杯飲もうと思っていただけだった。店やラブホテルに誘われることくらいは経験がある。なんと言ったって夜の街だ。だが、まさかこんなことを言われるとは思っていなかった。
「お願いします」
 女子高生は涙声になった。勘弁してくれ、と言いそうになるのを我慢して、無視して通り過ぎようとする。けれど。俺も自分の性格くらいは知っている。
――つまり、無視できなかったのだ。
「はなしくらい聴くよ。そこの自販機で飲み物くらい買ってやるから」
 いつものパターンだ。職場でもこのくらい腰が低い。俺の弱みだ。
 女子高生は、ネオンの光のせいでだろうか、いやに青白い顔をしていて、素直に俺の言葉に従った。
 俺は自販機で適当にミルクティーを選び、女子高生に放った。彼女は見事に受け止めて、両手で包んだ。あったかい、とかすかに呟いたのが聞こえた。
 俺も缶コーヒーを買った。がしゃんと音がして、熱い缶コーヒーが自販機の下から出てくる。缶の口を開けて、切り出した。
「俺は残念ながら、援助交際とか興味なくてね。そんな金もないし。けど、人生相談には大いに興味があるし、聴いてもいいと思ってる」
 え、というように彼女が目を上げた。ツインテールに束ねられた明るい茶色の髪の毛にも疲れた様子が滲み出ているその女子高生は、困ったように唇を結ぶ。
「一緒に死んでください、か。何を困ってる?」
 単刀直入に俺は切り込んだ。ビルとビルの間にいるとはいえ、気温は約五度だ。本当は寒くて、こんな少女なんて無視して帰りたいのだが。俺はつくづくお人よしだ。
「わけなんてない」
 今度はうつむいて、少女は言った。小さくて聞き取りにくい声質をしていた。
「あるはずだよ。なんで俺に声をかけた?」
「知らない。ただ一緒に死んでくれたらいいの」
 精一杯優しく発したその問いにも、彼女はぼそりと答えるだけだ。
 熱い缶ミルクティーも刻々とその温もりを失っていく。
 俺は、微妙に取っていた間合いをすっと狭めた。少女が弾かれたように身を引く。この訳ありの女子高生は、何を求めているのだろう。
「俺に話しかけたのが運のつきだ。しかも、そんな悩んでそうな顔で」
 俺は笑って見せた。
「吐いちまえ。何が苦しいのか。一緒に死んでほしいと言うわけを聞かせてくれたら、考えてもいい、女子高生A子さん」
 黙って缶の封を開けて、女子高生A子は、しゃがみこんだ。
 通り過ぎる親父たちが俺らを、これ見よがしに指差して言い合う様子が目に入ったが、さして気に留めなかった。
「もう無理。これ以上」
 細い声が下から聞こえる。話し出してくれたか、と少しほっとする。
「これ以上無理って、どういうことかな」
「生きていることが、苦痛。家はあいつのせいでめちゃくちゃで。あの人はあいつのどこが好きで一緒にいるのかわからない」
 あいつだのあの人だの、抽象的すぎるとぼやきながらも、なんとなく、「あいつ」は「他人の男か女」で、「あの人」は「父か母」なのだろうと推定する。
 缶コーヒーを一口煽る。寒いな、と舌に乗った言葉を一緒に飲み込む。苦い味だ。
「生きてることが苦痛、か。そりゃ相当つらいんだな。そんな気持ち、そうそうあるもんじゃない」
 思ったままを口にした。わっと泣き出したA子を見て、軽くため息を吐いた。
 泣くなと肩を抱いてやることは簡単だ。そうしないでとどまったのは、やはり職業柄、だろうか。冷静な自分がいるのだ。
「でも、全くの他人を巻き込んで死のうとするのは正しくないと俺は思うよ」
 続けて、どちらかというとと言った。
「俺の役目は、一緒に生きてみませんかと言うことだから」
 女子高生A子は、泣きながら、俺を見上げた。
 空は黒く、街中の明るいここでは星も見えない。星の代わりにたくさんの人工的な灯りがちらついているのだ。
 A子はぐしゃぐしゃになった目元を拭いながら、縋るような目をした。口から洩れる息が白く長く飲屋街になびいて消えていく。唇がかすかに動く。何かを言おうとしている。
 なんだろうとしばらく待ってみたが、それは言葉にならなかった。もう少し待った後で、俺は肩で息をして、それまで待っていた行動を起こした。隣に片膝をついてしゃがんで、まず背をさすり、肩口に手を添えてやった。この寒さの中、こんな薄着でいたのかと驚いた。仕方ないなとコートを脱いで、彼女の肩にかけた。女子高生の強張った体から、力が抜けると同時に、吐息が長く唇を通った。
「一緒に、死んでくれますか」
 まだ言うのか、強情だなと内心呆れながら、その言葉に込められた裏の意味を汲もうとする。いや、と俺は言った。
「まだまだ。A子さんのことを聴かせてもらわないと、それは決められない」
 沈黙した少女の横顔に、安堵が表れたような気がした。そう、多分まだこの子は死なない。死にたくないと思っている。だから、俺に声をかけたのだろう。助平そうでも酔いどれでもなさそうな俺に。
「場所を変えようか」
 立ち上がるよう促した。

「こんばんは、藤木さん。いつものくれるかな」
「あいよ」
 オーナーの藤木さんは、馴染の俺の注文にのんびりと応じる。
 ここは、宵から明け方にかけて営業している飲屋街の隅にある喫茶店だ。大学時代からお世話になっている。心理学のレポート課題を大量に出された時は、ここの隅っこの席に陣取って、課題をやらせてもらっていた。仄明るい店内の造りはどことなくバーを連想させるが、常にクラッシック曲が流れ、甘ったるい酔いそうな雰囲気はない。メニューはサンドイッチからワインまでなんでもござれ。
「珍しいね、知り合い?」
 口ひげをはやしたスマートなオーナーは、俺の連れにちらりと目をやって言った。
「さっき会ったばかり」
 へえ、と彼は目を丸くした。一方の女子高生A子は、俯いて、小さくなっていた。店内を見回すこともなく、俺のコートをぎゅうと体に巻きつける。不安なんだな、と思った。もしくは、途方に暮れたといった感じか。
「まあ、お座んなさいな。何か食べるかい」
 藤木さんがカウンターの向こうから優しく訊いている。女子高生は首を横に振って、ひとつ空けて俺の隣にすとんと腰をかけた。
「何か食べたくなったら遠慮なく言ってくださいね。お作りしますから」
 それにもうなずくだけだった。
「――でだ。改めて、女子高生A子さん。気は変わらないの?」
 二度、うなずかれた。さりげなく彼女を観察する。目に力はなく、結ばれた唇は小さく、本当に小さく震えている。すぅ、と鼻を何度もすすり、息を吐いている。どうなんだろうな、と俺は考える。
「そうか。ま、いいさ、焦らなくても時間はある」
 聞こえるくらいの大きさで一人ごちて、俺もうなずいた。
「まあ、未成年にふさわしい時間までなら付き合ってもいいからな」
「はいよ、いつものやつね」
 藤木さんが、いつものようにチョコレートパフェを前に据えてくれた。
 何気なく顔を上げてそれを見て、女子高生が初めて大きく表情を動かした。え、え、と言うようにパフェと俺を見比べている。
「どうした」
 わざと平静を装って訊いてみると、だってそれ、と言う。
「おかしいか」
 にやりとして、うまいんだぞ、このパフェ、とスプーンでつついた。
「特に疲れた時には、絶品。このバニラアイスとバナナとチョコレートの絶妙なバランスが、いいんだ、ここのパフェは」
「疲れた時に甘いもの、っていうのはよく言ったもんで」
 藤木さんも、白いふきんで手をふきふき言った。
「だからって」
 俺は内心、またほっとする。ふつうの反応だ。歳を食ったおっさんが、チョコレートパフェを嬉しそうに食べる図を見たら、普通の女子高生ならひくだろう。彼女の反応はそんな感じだ。そういう感覚はあるんだな、と思う。
「さっきのはなし、もしここで続けられそうだったら、話してくれないかな、A子さん」
「――って呼んで」
「え?」
「彩子って呼んで、A子じゃなくて」
「分かった」
 パフェを崩しながら、注意だけは彼女、彩子に向けて、相槌を打つ。
「彩子さん。もし話せないなら、俺からいくつか質問を重ねさせてもらうが、いいかい」
 答えがないのを、了解と解釈して、俺は質問をすることにした。
「今、いくつ?」
「十七」
「このへんの高校?」
 そっけない返事かうなずきが、一応は返ってくる。
「家はどのあたり?こんな遅い時間まで帰ってこないと、お母さんやお父さんが心配するんじゃないかと思うんだけど」
 自分でもいきなりすぎるなとは思った。しかも、ほぼ核心に迫った質問である。――通常のカウンセリング場面では、こんなきわどい賭けはしない。
「……」
 案の定、冷たい沈黙が返ってきた。
「さっき言ってたよね、あいつが家をめちゃくちゃにしてるって。それは、誰のこと」
 彼女は、吐き捨てるように短く、母親の男、と答えた。憎々しげな口調だった。
 俺は、パフェにささっているウェハースをさくさくやりながら、なおも畳み掛けるように訊いた。
「お母さんに好きな人ができて、その人が彩子さんの家に踏み込んできたという解釈でいいか」
 認めるのも嫌だと言うように、彼女は唇を真一文字に結ぶ。
「お父さんはどうしてるの」
「父親はいない」
「いないって、つまり?」
「あの人は結婚しないで私を生んだんだ」
 シングルマザー、ってやつか、と変換する。
 店内のモーツァルトが、シューベルトの「アヴェマリア」に変わる。
 この曲なら俺も知っている。
「そっか。じゃ、親子二人でやってきたんだ」
「……」
 沈黙。これじゃ傾聴どころか尋問みたいだな、と反省しつつも、聞き進めていく。彩子の表情をさりげなく観察しながら。一方ではしっかりパフェを食べながら。チョコレートのかかったバナナは旨いな。
 適度な間を置いて、また質問を重ねた。
「彩子さんがしんどくなってきたのはいつくらいから。君があいつって呼んでいる男の人が現れた時くらいからなのかな」
 わからない、というのが彼女の答えだった。俺は、ふうんとうなる。
「いずれにせよ、それで生きているのがつらいというくらいに追い詰められたんだなあ」
 あの、と考え考え、つっかえつっかえ話し出そうとする彩子。
「私、わかんないの。死にたいの。苦しくて。でも怖いの、生きていたいの」
 おそらくそれは本心だろう。死ぬのが怖くなければ、助けを求めていたりはしない。
「でも、ごめんなさい。巻き添えにしようとして、私……」
「正直ってことはいいことだよ」
 俺は言った。
「死にたいくらいつらかったんだから」
 彩子は、言葉は発しなかったが、うなずいた。
「本当にここのパフェ、食べないか。うまいんだけどな」
 にっと笑って言ってみる。少女は、少し下を向いて、また二度頷いた。
 藤木さん、と言うと、オーナーは、キャラメルソースをサービスします、と弾んだ声で応じた。
「生きていたいならな、彩子さん、生きていたらいい。死ぬ必要はないよ。つらいってことを俺に言えた、それはすごいことなんだよ」
「……」
「抱え込んで死んじまったら、彩子さんがこんなにつらかったってこと、誰も知らないままだかんな」
「……うん」
 俺は立ち上がって彩子の頭をわしゃっとなでた。彼女は一瞬身を硬くしびくっとしたが、やがて肩の力を抜いた。
 どうぞ、とカウンターから藤木さんがチョコレートパフェを彩子の前にことりと置く。チョコレートソースとキャラメルソースがきれいに螺旋を描き、とろりと流れている。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
 彩子はそう言って、スプンを手に取り、バニラアイスをすくって口に入れた。一口食べ、二口食べていく様子を確認して、俺も残りのパフェを食べていく。冷たいが甘い。甘くて、冷たい。
 次に聞こえてきた「アメージンググレース」。
 赦しの歌だと俺は思った。黙々とパフェを食べる女子高生の横顔を見やり、目を閉じた。

―――――――――――――――――――――――――――

あとがき

「バニラアイスが溶けるころ」

最初に出てきたのは、彩子でした。「一緒に死んでほしい」と二つくくりの女の子が必死に頼む情景が突然出てきて、その子をなんとかしてあげないと、と思ったのです。彼女が出会ったのが、臨床心理士として病院で働いている主人公。ちょっと型破りで、ぶっきらぼうなところがあります。現実にいるのかはわかりませんが、そういう臨床心理士を書いてみたかったのです。だからでしょうか。「俺」を書くのはとても楽しかったです。あと、藤木さんみたいな人も、いたらおもしろそう。

三月現在、一応ここで止めてありますが、展開しておらず、解決したすっきりがないので、足せるときに続きを書いてみたいと思っています。

バニラアイスが溶けるころ、彼女の胸のつかえもとれるでしょうか。

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