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小豆色の寂寥(1)

小豆色の寂寥あずきいろのせきりょう

 大学受験までもう数ヶ月を切っていて、しかも成績が全然上がらなくて内心すごく落ち込んでいるところ、遺品の片付けに行きたいなんてどうして思えるだろう。それも、お父さんのお兄さんのお嫁さんのお父さんの叔父さんという、縁の遠い、普段全く関わりがなかったひとの。

亜芽あめ、ここじゃわ。さ、降りて」

 お父さんが車を停めて、私に促した。

 ふきんしんだ、と言われても、気が進まないものはしかたがない。だけど、やらないといけないという現実も、しかたがない。私たちより関係の濃いひとたちは、アパートの大家さんの言う部屋の片付けを押しつけ合っていた。でなければ、血縁の薄い私たち岩戸家いわとけにこんな役割は回ってこない。

「その鞄に袋と紐が入っとるけんな」

 貴重な日曜日を、孤独死から三日経って発見された親戚のおじいさんの部屋の片付けに使うことに不満だらけだったが、ここまで来たら手早く済ませることを考えようと思った。

 お父さんの背中を追った先は、ひび割れが目立つ二階建てのアパートだった。白かったであろう外壁の黒いしみみたいなものはなんだろう。

 二階のある部屋でお父さんが足を止めた。

 「樫尽蔵かしじんぞう」と書かれた名札は手書きだった。線は細く、払いは、すっと長かった。

 お父さんが鍵を入れて解錠し、ドアを開ける。私は、真夏の部屋で亡くなって数日経ったひとの部屋の異常なにおいを想像して、とっさに息を止めた。だがすぐに呼吸を取り戻した。唖然として、お父さんのほうを見る。

「ほんまに、ここで暮らしょうたんか」

 ぽつりと漏らしたお父さんの表情は、ただただ、さびしげだった。

 予想していたような、ごちゃごちゃと汚いごみだらけの部屋ではない。壁に押しつぶされそうなDKの住まいで目に入った物は、台所に伏せて置いてある青色の茶碗と一膳の箸と鍋、畳の隅にひとまとめにされた箱ティッシュと本とタオルケット、筆記用具。それだけだった。

 お父さんは私を見て、始めよう、と言った。

 タオルケットは、薄い紫色で紫陽花柄、やわらかいのは柔軟剤を使っているからではなく、単にもうずっと使われてきたがゆえだろう。

 隅にまとめられた本は五冊。「宇宙の物理」、「節約料理、今夜のおかずは?」、「乾杯ララバイ」、「小豆色の部屋」、「写真で見る田園風景」。バラエティに富んでいる。「小豆色の部屋」だけカバーがなく、文庫本まるはだか状態で、薄茶の表紙にはところどころ珈琲をひっかけてしまったようなしみがあった。何気なくぱらぱらめくってみる。

 あれ?

 私は過ぎた頁にもう一度戻る。挿絵だ。小説の文庫本には珍しい。

「亜芽。浴室も押し入れも、ざっとハタキをかけたぞ。どんな暮らしをしょうたんか、もう運び出す物もねぇし、車に戻ろう。そこの本、全部持てるか」

「うん」

 お父さんが段ボールをひとつだけ軽軽と抱えて、戸口へ向かう。私はタオルケットと五冊の本を紐でくくらずまとめて持った。

 小説と思われる本の終わりのほうにあった挿絵が目に焼き付いている。濃い小豆色が文庫本の見開きに広がり、細身の女性が壁と思しきものに身を預けてつまさきを見ている様子が、どうにも胸をざわつかせた。

   *

「えらく早かったんね。夜ご飯の時間くらいになると思ようたわ」

「あんなに部屋ががらんとしとるとは予想外じゃった。段ボールを五つ持っていったんじゃけど、一箱で十分だった」

 お父さんが、「お疲れさま」と出てきた、これから仕事に行くスーツ姿のお母さんに言った。

「や、あれでよう生活しょうたんじゃっていうくらい物がなかった」

 汗で濡れたTシャツを玄関先で脱ごうとするから、

「こんなところで脱がんでよ! いっそシャワー浴びてきたらええが」

 お母さんが言っている。

「亜芽もありがとね。おつかれさん」

「うん」

 お父さんの後ろでサンダルを脱いでいた私に、お母さんは優しく声をかけてくれた。軽く頷いて、手洗いうがいをして、自分の部屋に行った。

 お母さんは、言わない。成績のことも、受験校の偏差値のことも、模試があった日の手応えも。それが有難いのか、プレッシャーなのか、自分ではわからなかった。

 自分の部屋で、鞄の中を探る。樫さんというおじいさんの家にあった五冊の本のうち、一冊だけ私は自分の鞄に移していた。「小豆色の部屋」の文庫本。さっきは気付かなかったけれど、この本もタオルケットと同じだ。やわらかく手になじむこの感触は、長く長く手にされてきたからなのだろう。

 どんな内容の小説なのか気になっていた。文庫本によっては、あらすじやジャンルをカバーのどこかに簡単に記してくれているが、この本はそもそもカバーを取られている。
 ひとまず、目次を見たあとに頁をめくって目を通し、物語の流れと結末を把握することにした。全部で三百二十八頁あった。

 

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