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小豆色の寂寥(3)

 突然遭遇した怪奇現象。それでも本を取り落とすことはなかった。目を疑ったが、怖くはなかった。

「今の言葉、全部、私に?」

「そうよ」
 絵の女性の口が動いたことで声の主を確信する。

「私は創作物。平面。非現実。なのに、動いたり話しかけたりされても、えらく落ち着いているのね」

「いえ、落ち着いてはいないんですが」

「全然そう見えないわ」

「そう見えんでも、混乱しとるんです。これって、本当に本当のことですか。絵がしゃべっているって」

 さあ、と、女性は投げやりに言う。

「きみの幻聴や妄想でもいいんじゃない」

「えっと、でも、でも、実際に聞こえとるわけで、声が」

「なら、絵が話しかけている、でいいじゃない。私はきみがたくさん質問してくるから応じただけ」

 応じてくれているわりには、小豆色の部屋の女性は淡泊だった。

「あ、あの、あの男のひとってだれのことですか」

「きみが、先刻訪れた部屋の主だよ。いつも声が掠れていた。だれと会うでもないし、寝る時間なんてまちまち。人間は基本、朝昼夜とご飯を食べるけれど、あの男のひとは食べたり食べなかったりしたのね。そもそも食糧がなかったのかもしれない。住居のそんな細かいところまで私には分からない」

「おじいさん……」
 今日の昼に、部屋の片付けに行った、かしさんという遠い親戚のおじいさんのことだ。

「そう、名字がかし、名前が尽蔵じんぞう。彼とは若い頃、古本屋で出会ってね。長いこと私の絵を見て、小銭ばかりで支払いをした。以来ずっと、私のいる世界を綴ったこの本を大事にしてくれていたわ。あんなにひとと関わらない孤独な暮らしで、たったひとりで亡くなるとは思いもしなかったが」

「おじいさんが亡くなったことは知っているんですね」

 本として閉じられており、本来なら生気を持っているとは考えにくい存在なのに、と驚くと、簡単なことよ、と紙に描かれた女性は、ぎしぎしとぎこちない動作で首を横に振った。平面で絵が動くのはなんとも奇妙な風景だ。

「切れたのよ。あの狭いアパートの一室で動いていた樫老人が発する音がすべて、ぷつりと途絶えた。あの感覚は、私がひとを殺めたとき、何度も味わっていた。第二章の半ばに、作者が明確に描写しているわ」

 コウさんの挿絵の頁に指を挟んで完璧に閉じないようにしつつ、私は第二章に戻ってみた。

 なるほど、『コウがナイフで心臓を取り出す。血管がぷつぷつと引きちぎられ、拍動を失った肉体が塊と化すとき、死者と生者を分ける音がいやに軽く虚空に響いた。だれの耳にも静寂ばかりで、音は聞こえなくなった。』という文がある。さすがにえげつなくて、少少気持ち悪くなる表現だ。

「な、なまなましいですね」
「実行にはもっとなまなましさが伴うわよ。きっとこれでも表現を選んだほうだわ」

 返答に窮して次の言葉を探していると、
「私の日日は、とにかく凍えることとのたたかいという設定だったの」
 コウさんは言い、ずるずると背中を壁に滑らせる。

「生まれてきてはいけなかった。底辺で生きていた私を鳥の神さまが生かしたというのに、どうしても感謝の気持ちを持つことができなかったの。寒さの冬にどれだけ暖房をたいて、分厚い衣服を着ようとも、暑い夏に熱中症になるほどの灼熱の太陽にさらされても、寒さは消えない」

 そんな環境下で凍えるなんて。特異体質か、自律神経系の病なのでは。おっと、これは小説内のことだ。設定を決めれば、なんでもありか。

 小説の登場人物は、つねに著者の意向に沿って動く駒だ。

「熱熱のお風呂に入っても、晴れた日に空の下でお散歩しても?」

「そう。風呂に入った記憶は薄れているし、晴れた日に外に出て散歩するなんて場面はなかった。特に、人間を始め、生き物とふれあうなんてめんどうなことはしようとも思わなかった。作者は、そんな人間に私を創った」

 物語がかたちになるために。

「じゃあ、愛と似た感覚のやすらぎがなにかっていうのも」

「知らないし知ろうとも思わないわよ」

 にべもない答えだ。

「それが私という人物」

 淡淡と言うコウさんは小豆色の絵の中で両手を広げたり握ったりしている。

「今も寒いんですか」

「そうね」

 本の挿絵が動く。広い世界だ。そんなことがあってもいいだろう。
 小説の中の人物と会話してもいいだろう。広い世界だ。私が今体験している。
 では、どうだろう。広い世界だ。小説の中のひとに温感を伝えることはできるだろうか。

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