やたら長いbioで人生がラクになる秘訣を謳っているアカウントのような本。せきしろ「たとえる技術」感想
こんばんは、灰色です。いつ頃からのことかもう分かりませんが、私はとかく雑談にたとえ話を使まくる方で、エスカレートしすぎて通じなかったり回りくどすぎて不快にさせるレベルと、丁度良く通じて笑いや共感を生むレベルのギリギリラインを探すのに生きがいを感じるような、面倒極まりない性格をしています。
こういうタチなので必然、たとえツッコミが早くて上手い芸人の方々はどれほどリスペクトしてもし足りず、麒麟・川島明を筆頭に日々テレビを見るたびに目から鱗の滝を落としながら勉強しております。私のnoteやTwitterが毎回長ったらしいのも、言うまでもなくこうした性格に由来しております。
そんなわけで、これも何らかの勉強になればと本書を読んでみました。本書は「〜のような」「〜のように」という表現のみに特化した、「たとえ」に関する本で、そのバリエーションや想定されるシチュエーションなんかが書いてあります。
冒頭にも「この本は◯◯のような本である。もしも本書を読んでたとえたくなったなら、是非この◯◯を埋めてもらいたい。」と書いてありましたので、敬意を表してその流儀に乗っ取り、率直な感想を書きたいと思います。
なお、本記事は読者様の貴重なお時間を奪う罪悪感が特に大きいので、太字のところだけ読めば本の感想としては終わりです。あとは私の趣味によるトレーニングですので、なんら内容のあるものではありません。
那須川天心が格下の相手をKOするように、早々に結論だけ先に書いてしまうこととする。残念ながら私にとっては、ビル・ゲイツに対してメタバースの可能性を2時間たっぷりかけて説くような内容が大半であり、特筆すべき点については素人が丸一日かけて砂金取りに精を出したようにわずかであった。
仮にも一冊の本に対していきなり己を天下のビル・ゲイツにたとえ、相手を砂金の量と断ずるとは、大日本帝国軍総司令部にタキシードで馳せ参じるような失礼!と貴方がもしお感じであれば、未成年との金銭が絡んだ関係が報道された大臣のように謝りたい。私は眠っていないときの毛利小五郎のように横暴で短絡的な結論を出して悦に入りたいわけではないのだ。
ただ、期待の量を見誤り、それと内容の乖離がいささか大きすぎたというだけである。であるのだが、そうしてルパンのピンチに現れた石川五右衛門が斬鉄剣の一閃でつまらぬものを切ってしまったときのように即座に終わらせてしまえば、それこそ安くない代金を支払った飲み会での暴飲暴食の末に酒と食べ物を全て吐いてしまうように、無駄と悲しみが残るだけだ。
どんな本であってもせっかく時間をかけて読んだからには、たとえこづかい万歳に出てくる怪人たちが感じている日々の喜びのようにささやかであっても、その内容を己の血肉にしたいのが人情である。幸い、筆者も「たとえることのメリット」について、レオナルド・ダ・ヴィンチの才能のようにその万能さを繰り返し語っており、そのうち巻末には「たとえることは自分の差別化・独自性の強化に役立つ」ともあった。
であれば、私がボクシング4階級制覇チャンピオンのジムにあるサンドバッグのように本書を活用することも立派な読み方であると、ロードオブザリング旅の仲間に出てきたモリアの坑道内石柱の間のような広い心できっと許容してくれることだろう。
というわけで、ここまででも一昔前のヒーローもの映画の一作目で主人公が力を手に入れるまでのように冗長になったが、急いで自転車を漕いでいるときに遭遇する保育園児のお散歩のように無視できず立ち止まらざるを得ないポイントや、横綱が前頭相手に猫騙しで勝利したときのように批判を免れないポイント、図書館でミステリシリーズ10冊を一気に借りて読もうとしたときに6巻だけ貸し出し中だったときのような悲しみを覚えたポイントについて、少しずつ触れていきたいと思う。
なぜなら「たとえ」とは、山田勝己にとってのSASUKEのように、私の人生に欠かすことのできないアイデンティティの一つであり、どれほど人に呆れられようとも鍛錬をやめられない、己自身のためのものだからである。
では、本書の内容に触れていこう。まず目につくのは、「たとえ」る際にジョースター家の血統とDIOの因縁のように避け得ない問題である「くどい」という点について、項羽が撃破した敵対勢力を非戦闘員に至るまで生き埋めにしたような徹底ぶりをもって無視していることだ。本書に出てくるたとえには、ヤマサのめんつゆのように比較的誰が使ってもまずいことにならなさそうなものもある一方、カルディの奥にひっそり並んでいる名前も聞いたことがない調味料のように見るからにクセが強くて使いにくいものも非常に目立つ。下手に用いれば、祖父母も交えて見ている紅白がリモコン操作のミスで突然ダウンタウンの笑ってはいけないシリーズの下ネタシーンに切り替わってしまったときのように、その場が瞬時に凍りついてしまうだろう。
極論をタイトルに付けた結果似たり寄ったりになってしまったビジネス書のように、たとえがいかに人生を変えるかを語っているが、ページを追っていくと昔の進研ゼミの漫画のように問題解決シーンのシュールな無理矢理さがどんどん目立ってくる。
本書の最序盤には、「たとえが風景を鮮明にする」という謳い文句に続いて、「銀杏並木が」「ダンディ坂野のスーツが並んだクローゼットのように黄色い」という文例が出てくる。私はこの時点で、FFでパーティーがまだ全員揃ってないうちからベヒーモスの徘徊するエリアに入ってしまったような危険を感じた。
紅葉を眺めながら歩いているときに、隣からダンディ坂野のスーツが〜などといきなり飛び出してこようものなら、青竹を斬り捨てる居合の達人のようなスピードで「は?」と言われるのがオチだろう。
例を挙げればキリがないが、「『ここではさすがに踊れませんね』とマイケル・ジャクソンが困るように狭い」なんてのも出てくる。食べるラー油の瓶を丸ごとひっくり返してしまった白ごはんのようにくどい。くどすぎる。加えて言えば、「◯◯のように・ような」パートに対して、その後に続く単語が短すぎるケースが多く、上野のアメ横で強引に客引きをしてくるケバブ屋のトークのように日本語としての違和感を覚えてしまう。
ところどころ、特に極端なものについては作者も自覚しているようだが、「これではカオスだ」「実際にそういう人がいるかは知らない」「オススメしない」などという一文を付け加えることで、せっかくのツッコミの派手さと鋭さをその直後のセルフ補足によって大幅に損ねてしまう東京ホテイソン・たけるのように突き抜けきれない印象を覚えるし、「なんちゃって」という言葉を実際に聞いてしまったかのようないたたまれなさを覚えるだけだ。
幸い、ページの切り替わりが滑る氷の床を進まなければいけないステージにおける岩のようにストッパーとして機能しているが、「デメリットを無視している割に、ちょいちょい一人ツッコミで茶化す」というのは、古くから付き合いのある会社が令和になっているというのに接待の席で「これは気持ちですから」と言って渡そうとしてくる金一封のようにいただけない。
ちなみに、邪悪な魔術で操られ主人公と戦いながらも必死の説得で人の愛を思い出したキャラクターのようにふと我に返ったのか、「TPOによってはたとえを使うべきでない場面もある」と前置きしているページもある。しかし、直後に出てくるのが「話を長くしたいときには有効」という、これまたまとめて出てきた復活怪人の強さのように信頼できないケースだ。
案の定、「一度か二度会った相手とエレベーターに乗り合わせたときの気まずさを解消するため、天気の話をする」というシチュエーションに、「広瀬香美の曲が流れてきそうな寒さ」「シューベルトの『魔王』なら子どもが死んでてもおかしくないような嵐」など、初期のボーボボのギャグのように人間社会で声に出すのは度胸がいるワードが並ぶ。
後半はさすがに大学生がウイスキーを飲みながらジェンガをやるような悪ノリだと思うのでもう無視するが、前半にしたって「広瀬香美の〜」と即座に発想するにはくりぃむしちゅー上田のような言葉選びの閃きが、いざ切り出すにはジャイアンに一人で挑んだのび太のような勇気が、最後まで言い切るには高校生弁論コンテストの決勝出場者のような饒舌さが必要だろう。そんなサラリーマンは早くラッパーとかになった方がいい。
次に、たとえを紹介する文字がやたらデカい。若手社員がパワポで資料作りをする際の枚数稼ぎページのようにデカい。それと前述の「くどい・クセが強い」が相まって、00年代生まれに対してエヴァの画期性を語るようなドヤ顔感が滲んでしまう。もっともこれに関しては、私にも冴羽獠が自分の掌ごと相手を撃ったような小さくないダメージが返ってくるので、あまり擦るのはやめておこう。
尚、こういうときに使いがちなブーメランというのは本来返ってくるのが前提の道具で自らを傷つけるわけではないので、ここではうなぎの蒲焼きにタレと間違って黒蜜をかけるような過ちになってしまい、ら抜き言葉のように誤用警察に見つかることを恐れて使用を避けた。
あと、単純にたとえとしての質に疑問符がつくものも散見される。「四つ葉のクローバーではないクローバーのように緑の葉」なんてONE PIECEのアニメ版のような繰り返し・引き伸ばし感があるし、「適当に入った居酒屋なのにEXILE全員が入れた時のような偶然」とかはシンプルに「選んだ居酒屋」とするべきだ。「入ったのに入れた」という日本語をそのまま本にしてしまうのは、ウノ!と言い忘れていたのにゴネる輩のように看過できない。さらに言えば続くべき言葉は「幸運」とかの方が、チャンネルをそのままにしているニチアサのようにスムーズだろう。
より悪いのは、「赤が強すぎたアタック25のパネルのように赤いもみじ」「たくさんのカラーボールが敷き詰められたキッズコーナーのようにカラフル」などだ。赤いもののたとえに「赤」、カラフルなもののたとえに「カラー」と書いてしまうのは、これはもうレースゲームの一番簡単なコースのようにシンプルに、「頭痛が痛い」と叫ぶような悪例だと、逆転裁判のように思い切り異を唱えたい。
そして悲しいかな、極めつけに作者の世代が上すぎる。本書において「上手いたとえ」とされているものの中で、製造業や建設業における外国人労働者のように少なくない割合が、年末になって発見されたお中元の洋菓子のように古い。
2016年初版ということを現場作業における安全第一のように大前提としても、当時の作者年齢が46歳で、芸能人の最新例がギャル曽根やEXILE、テレビ番組ならネプリーグ、さらにはザブングル加藤と高橋英樹に単体でそれぞれ見開き2ページずつを使うというのは、こち亀における時間の流れの歪みのように、下手に触れない方が余程よかったと思う。それとも筆者はキャプテン・アメリカのようにしばらくコールドスリープしていたのだろうか。
そもそもこの本はモブキャラが主人公を狙って乱射してきたマシンガンのようにターゲットが定まっていないが、夜中に河原の方から聞こえてくる妙な音を「あずき洗い」という妖怪の仕業だとしたように想像力を頑張って働かせると、本書の想定する読者は雑談や文章執筆の際のエッセンスとして「たとえ」を活用してみたい層だろう。
であれば、会話・執筆経験が豊富な40代半ば以上のビジネスマンではなく、それまでの友達同士の会話では平時の防災リュックに入っている手回しラジオのように不要だったがゆえに、「たとえ」の引き出しが北朝鮮で見られるテレビ番組のバリエーションのように乏しい若者に向けた本、と考えるのが、登山道の脇を慎ましげに彩っている苔のように自然な考えだろう。
そういった層に対して、「岩谷テンホーの漫画にマツタケが出てくるような秋」「『北の国から』の五郎が足を伸ばせた風呂のように広い」と大文字で並べ立てるのは、フォークソング全盛期の日本にタイムスリップしてAdoメドレーを聴かせるような、ジェネレーションギャップを無視した蛮行になってしまう。
と、ここまでチョコラータに対して怒りを爆発させたジョルノのようにルール無用のラッシュでボロカスに書いてきたが、おそらく本書はこうして何もかもを自分でたとえたくて仕方ない私のような奇人向けのワークブックとしてこそ、YouTubeの人気動画で徹底的に磨かれた硬貨のように輝くのだと思う。そういう意味では、私も釈迦の掌の上で騒ぐ孫悟空のような愚者なのかもしれない。
なぜなら、少なくとも本書を読んだ結果、私は己以外の怪獣王の存在を許さないKOM版ゴジラのように闘争心をかき立てられ、ステルス効果が切れたGANTZチームのように他人の目など完全に無視して、RRRのナートゥのように一心不乱にnoteを6000字近く書き切れたからだ。たとえ言葉のトレーニングとしては間違いなく有用で、リングフィットアドベンチャーのように楽しみながらの筋トレになった。ただし、鋼の錬金術師世界のような等価交換の法則によって、私はわずかに残っていた社会性とまともな読者をさらに失うことになった気がするが。
逆に、仮にあなたが「たとえ」を使うことに対して、初めて路上教習に出たときのように自信がなく、それでもライザップのアフターの人のように変わりたいと願っているとしても、絶対に本書をそのまま真似をしてはいけない。私自身、自分のたとえ話が上野の古くからある居酒屋で出される二級日本酒のように悪い意味でクセが強いことは自覚しているが、本書をそのまま真似をするのは消毒用アルコールを酔っ払うために飲むようなもので、あなたはシャンクスの片腕のように取り返しのつかないダメージを負う危険性がある。
それでも「たとえ」トークに憧れるなら、答えは一つだけだ。平日朝8時から10時までTBSでラヴィット!を見ろ。仕事ならTVerでアーカイブを見ろ。答えは全てそこにある。