瞬間にしか宿らない永遠を幸せと呼ぶ
今年の秋は映画が豊作だ。
映画も好きだけどそれ以上に映画館が好き。
スクリーンの中にいる間は、夢と現実の狭間を悠然と彷徨っているようで、まるでノアの方舟に乗った気分になる。
そうやって僕は毎週末せっせと映画館に足を運び続けている。
「めくらやなぎと眠る女」
「HAPPY END」
「SUPER HAPPY FOREVER」
最近はこの三作を観た。
HAPPYに対して終わりと永遠が対になっているけれど、とりあえず幸せにはなりたいみたい。
たぶん幸せってなるものじゃなくて気付くものだけどね。
この三作のなかで特に「SUPER HAPPY FOREVER」は間違いなく自分にとってかけがえのない映画となった。
内容や劇中の空気感、俳優陣の表情や後ろ姿すべてが魅力的に映った。
※好きな部分を書くとキリがないから割愛
「幸せな瞬間ってある?」
この間、何気なくそんな質問をされた。
楽しい時ではなく幸せな瞬間って言われてしまうと、少し首を捻って考え込んでしまう。
・自分の琴線に触れる言葉や表現と出会った時
・大切な人が幸せそうな時
・何もせず海を眺めてる時
答えとしてはそんなものだったけど、自分らしいなとも思った。足るを知ってきた証拠かもしれない。
連続的な時間には希少価値が少ないけれど、瞬間は文字通りその瞬間しかないからこそ、いつだって高貴な捉え方をされる。
今はもう手に入れられないもの、それは過去だ。
鮮明に焼きついた過去の瞬間は、容易く僕らを永遠にしてしまう。だって死ぬまで頭から離れないのだから。
と、言い切りたかったんだけど忘却という機能を進化させすぎた僕らは、鮮明に焼きつけられる量には限りがあるし、その調節すらできっこない。
永遠に続けば良いと望んだ瞬間、それを幸せと呼ぶのではないだろうか。
"永遠は絶対に存在しないという真理"をひっくり返したくなる程の衝動が、間違いなくそこにはある
そして「SUPER HAPPY FOREVER」の監督である五十嵐耕平はインタビューで以下のように述べていた。
時間を間接的に見る事で、
幸せは半永久的に蘇ってくる。
実際、劇中でもそういったシーンがあったし、写真という概念が無くならない理由も明白だ。
まるで永遠を望んだ瞬間を切り取って残しておく事が、忘却という機能を補完しているかのように。
永遠を望む瞬間を決して忘れたくなくて、2年ほど前にカメラを始めた。あの時本当に始めて良かった。
「この瞬間が永遠になりますように。」
そう思える瞬間が一つでも多くありますように。
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