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不幸だって豊かな味がする

こんばんは。

世間的にはGW後半戦、終わりゆく連休に憂鬱が膜を張っているような感覚の今晩この頃。

"「結局それは恵まれているんだよ」の一言で片付けたくない"

このタイトルに対して幾ばくかの遣る瀬無さを覚えつつキーボードを叩いている。




まず前提として不幸の概念は自分の想像の範疇を超えられない。

だから全てに対して「主観的にしか測れないからもっと視野を広げようよ」なんて言うつもりは毛頭ない。

会話のキャッチボールとしては粗雑も甚だしい。

けれど悲しい事に人の苦悩の大半にはこれが正しく作用してしまう。


"誰かの不幸は誰かの幸せで、誰かの幸せは誰かの不幸"

すごく偉そうな事言っているけど、これは思春期からボクの中にある"真理"であって、消える事のない世界で一番大きな矛盾だと思っている。

むしろ逆手にとって、自分一人の中でこの複数の"誰か"の視点を切り換えられれば、不幸だと思い込んでた事が幸せに逆転する瞬間があるかもしれないなって希望も捨てたくない。


"幸福になる方法は自分で実験してみなければならない"

ジークムント・フロイト

また「幸せを追求すればするほど不幸になる」と唱えた事で有名なフロイトは、机上の空論ではなくそもそも実験の上で成り立つものが幸福だと進言してる。

不幸と幸福の逆転もたぶん実験の一つに過ぎない

※突き詰めていくと世界三大幸福論や資本論が関係してくるからそこまでは言及しない(できない)

世界の見え方




個人的な話になるけど周りの友人は優秀な人が多く、つい最近まで不幸と感じてしまう思考に拍車が掛かっていた。

簡単に言うと嫉妬と羨望。

それは例えば勤めている会社、豊かな貯蓄、パートナーの存在などにわたる。

義務教育で自分の価値は自分で決めるものって習いたかったよ。

相対評価した時に下より上が気になる事、要するに無駄な行為にすら取るに足らない。

それよりもそんな状況と闘っている自分や日々に充実感すら覚えた、なんかスター取った時みたい。


結果から逆算した過程に対してすら肯定的になって、それはやがて豊かな味に繋がっていった。

本心から過去の選択や決断を肯定できた事に、正直自分でも驚いた。

ボクは不幸には豊かな味がすると気付いて、それが自分にとっての幸福へと近付く大きな一歩な気がした。

どんな味がするかはまだ分からない。
これからしっかりと噛み締めていこうと思う。




今夜もまとまりのない文章を書き連ねてきたけどボクがそうであるように、今のあなたを作れたのは間違いなくあなたしかいない。

ほらね、意外と不幸は豊かな味がするかもよ

それではおやすみなさい。

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