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人の言葉は難しい

養護学校時代、学校には時々ゲスト的に外から健常者がやって来た。
たとえば近隣小学校からの生徒や教育実習生である。
運動会や文化祭、その他イベント事で彼ら・彼女らは私たちと触れ合った後、ある人は感動し、ある人は涙まで流す。

ある日、近隣小学校の子どもたちとの交流を兼ねたミニ運動会に、まだ名が知られていない芸人コンビがやってきた。
競技をしながら1日共に過ごし、閉会の挨拶の時、彼らはぐしゃぐしゃに泣いていた。私たちに感動したようだった。
こんな時、私たちはちょっと冷めた様子で感動している彼ら・彼女らを見ている。


私たちは私たちのやり方で「普通」に暮らしている。普通に暮らしているだけだから、感動されるようなことは何もない。そこまで努力しているわけでも、1から10まで全力なわけでもない。
それなのに聞こえてくる多くの声は

障害を持っているのに、一生懸命取り組んでいる人たちを見て、自分が恥ずかしい。

障害を持っているのに、こんなに頑張っていて素晴らしい。

障害を持っているのに、こんなにやれるんだ。

障害を持っているのに、明るい人たちだ。

こんな感じだ。

こうした感動ポルノみたいな日常に晒されてきた私は、人に褒められたときに素直に受け取れない。
言外に「障害を持っているのに」というニュアンスがどこかにあるのではないかと疑ってしまう。

一方で、立場を変えると似たようなことを私は思っている。
たとえば、視覚障害の方がタブレット端末を触っている。彼ら・彼女らがスマホやタブレットを使っていることは知っていても、実際に見ていると「目が見えないのに、使いこなしている。すごい!」と思うのだ。
普通に
「使いこなしている。すごい!」
と言うのと、
「目が見えないのに、使いこなしている。すごい!」
とではまるで違う。
私は危うく後者を言いかけたことがある。とんでもなく失礼な話だ。

こうした悪意のない偏見や差別で人を傷つけてしまうことを「マイクロアグレッション」という。言葉の意味については、こちらがよくまとまっているので、読んでみていただきたい。

私自身は「無意識」「無自覚」「不勉強」に関しては寛容だ。
人間は世の中の他者を全部知っているわけではないし、私だって知らないことはたくさんある。知らなかったことに対して「差別だ!」「勉強不足だ!」などと目くじらを立てようとは思わない。
だいたい、いちいち気にしていたら障害者をやっていられなくなる。
差別だ!と言われることを恐れて何も言えなくなってしまったり、きゅうきゅうとした世の中になってしまうことの方がさみしい。
誰かに指摘されて気がつき、修正してもらえば良いと思っている。

しかし、そんな私でもここ最近人に言われた2~3のことを気にしている。
角が立つので詳細は書くことはできないが、やはり私たち障害者を取り巻く環境や状況、それに起因する私たちの心はなかなか理解されないのだなと改めて感じる。
人の言葉は難しい。


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