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ゴミの山の中のダイヤモンド

SNSでふわっとトレンドに上がってきた古文・漢文不要論、古文や漢文は日常生活に必要がないから、学校で習わなくても良いのではないかという議論だ。同様のものに三角関数なども挙げられている。

学生の頃は私もそう思っていた。標準偏差だの受験だのとは無縁の養護学校の学習の中でさえ、日常生活で使わないものをなぜ習うのだと、憮然とした態度で机に向かっていた。(ただし古文は好きだった)

「必要がないものは習わなくて良い」という考えは合理的ではある。社会に出ると、古文などよりも、お金の知識やら、契約のあれこれやら、暮らしの豆知識みたいなものの方が断然役に立つ。
だが古文を知らないと、世の中の文化的な側面を味わうことができないばかりか、”こいつ、やるな?”と思わせることもできない、教養の低い人間として残念ながらそのレベルで扱われる。
それに壁にぶちあたった時や、悩み事など、何かしらの解決のヒントを得たり、知識と知識が結びついて理解できなかった物事がわかるようになることもある。

日常生活で使わないといえば、今私が習っているスペイン語やフランス語は習うだけお金の無駄かもしれない。英語だって、翻訳サイトが優秀になってきた現在では Thank you ぐらい知っていれば十分だし、なんなら全く知らなくても生きていける。

しかし、それらを知っているだけで情報量は格段に増え、コミュニケーションできる人が増え、自国にはない考え方や文化を知ることができる。内心の地平線が広がるような感覚だ。
どうしてこの人たちは争うのだろうか、どうしてそのような方法をとるのか、単純に戦争は良くない、その方法はダメだと言う前に、相手を理解した上で建設的な意見を述べることができるようになる。

少し話を戻すと、古文・漢文は歴史と結びついているし、当時の思想とも結びついている。現代で起きている諸々の問題の解決の糸口を歴史から探ろうとしたときに、当時の人々からダイレクトに学ぶ方法は古文や漢文を紐解くことだ。
残念ながら私にはそちら方面の知識があまりないが、源氏物語を現代語訳で読み通したことで、放送中の大河ドラマをより面白く観ることができている。

数学だって化学だって、将来使わないかもしれないが、将来の選択肢を広げる可能性がある。私はしばしば”あの時もっと勉強していれば”と思うのだ。もっと学んでいれば仕事の幅が広がったかもしれない、人脈も広がるかもしれない、生活や人生が文化的に豊かになれば、それだけ問題解決の方法も見つけやすい、そう思うのだ。

子供の頃、無駄だと思ったことや、未だに無駄だと思えること、たくさんあるかもしれないが、本当にそれが無駄だったかどうかは生きている限りわからない。
ゴミの山の中にダイヤモンドが隠れているかもしれないのだ。
そして、何がダイヤモンドとなるのかは、誰にもわからない。

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