見出し画像

しごとを味わう

 わたしは、何をするのも遅い。たべるのも、お風呂も、着替えるのも遅い。ねむるのも遅くて、「人々は今頃、すやすやねむっているのだろうな」と想像して焦燥感にかられてしまうこともある。目が覚めているなら、夜を満喫すると良い。自然とそう思うようになってから夜が好きになった。静かな街で過ごす時間もお得な感じがして、贅沢な気分になる。「しごと」もそうかもしれないと感じるようになった。わたしは「しごと」も、とにかく遅い。心もからだも疲れ果てて、帰路につく。ゴール(目標)が家だった。家にいても頭の中で「しごと」をしていた。今、改めてその頃を振り返ると、「しごと」の量が多すぎて、「味わう」ことができなかったし、「しごと」の量をみるだけで、「『ごめんなさい』お腹いっぱいです」という気分になって、「味わう」気力さえなかった。吉本ばななさんの著書に『違うことをしないこと』がある。自分の容量を知ることは、実力不足とか能力がないとかそういうことを探す作業なのではない。できないことはできないと認識し、助けを求めるか、断る。できることはする。(求められること以上の「しごと」をするとお互いに幸せになれるかもしれない。)「しごと」は暮らしの一部分だから、「味わう」ことで暮らしが豊かになるかもしれない。わたしの生涯をより充実させられるかもしれない。
 ようやく、今になって、自分の容量を認められるようになった。そして、自分のペースでやっても何ら支障のない「しごと」をさせてもらえていることに気がつき、のびのびとやっている。わたしは、今、非常勤教諭として母校で高校生と中学生に国語を教えている。「しごと」を味わってみると、日々は意外とゆったりと流れていることを知った。すぐには変わらない。だから、わたしに与えられた「しごと」をのんびり構えてやっている。子どもたちと一緒に学ぶことを味わうと世界が愛おしくなる。少しずつ、成長しているかもしれないお互いのことを大切にする時間が流れ始めた。(もちろん、子どもたちはわたしが何もしなくても何かを学び、心も身体も立派に成長する。)わたしがもぐもぐと美味しそうにたべる文学を子どもたちも少し味見している。おいしいかな。そうだといいな。子どもたちが文学を味見する顔や言葉や例えがおもしろい。文章を書くことにも意欲的になっていて、うれしい。わたしはもちろん、彼らの書いた文章を味わい、味わった感想を伝えている。その感想は少し辛いかもしれないし、しょっぱいかもしれないけれど、誰かが自分の文章を「味わう」ということはとても刺激的で、目も合わせてくれないこともあるけれど聴いてくれている。最近、「しごとを味わう」と楽しいかもしれないと考えるようになった。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?