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多様性と個人主義のはざまで揺れ動く日本人としての美徳

今日は娘達の学年最後の登校日でした。
日本ならば卒業式は計画的に行われる一大イベントですし、
両親や家族を招待して盛大に最後の日を祝って仲間や先生との別れを惜しみながら母校を何度も振り返る…
そんなイメージが日本人の私の中ではスタンダードでした。

ところが海外に暮らすようになってから
「お式の文化を重んじる」人はほとんどおらず、
そこに来てましてや感極まって涙を流すだなんて
ちょっと「この人どうした?」と思われてもおかしくない空気が漂うのが
海外の多様性と言う名の極めて個人主義社会の象徴とも言えます。

実際に長女が通ったドバイのインターナショナルスクールでも
今の学校でも、ちゃんとした卒業式があったのは一度だけ
(コロナの影響もありましたが)、
そしてお式の最中に感動して泣いている親は見渡す限り私だけでした。

この経験を踏まえて私が学んだことは、
住む場所、文化、宗教的な大きな背景などによって
自分こそがいつでも「マイノリティーになりうる」と言うことです。

そして本気で「多様性」なんて言葉を使って色々討論しているのは
おそらく平和で真面目な日本だけです。

最近何かと話題になっているLGBTQIA+も、
個人主義の社会がベースにある国と日本のように集団主義社会のそれとでは
多様性の意味や体感、そして社会の景色までも
全く異なってくると思います。

欧米的な個人主義社会だって
私の知る限りでは協調性のない自己主張に思えるし、
中東の神は崇拝するけれど、
物事の流れは全てEasygoingな体質なども含めて
「多様性という言葉を使って広がるポジティブな世界は
本当はどこにも存在しない」
これが私の考えです。

卒業式のない卒業の日を終え、
お世話になった先生や校舎に特別な思いを馳せる事もなく
学年末試験が終わるやいなや、
早々にサマーホリデーに出発してしまう生徒(家族)の多い事に
毎年違和感を覚えずにはいられません。

これを非常識と捉えているのはきっと「お式の文化を重んじる」日本人の
私(マイノリティー)だけだと思いますが、
”立つ鳥跡を濁さず”この精神は日本以外の場所では
あまり理解されていないのも事実です。

”みんなそれぞれ違っていて当たり前、
やる事さえやっておけばあとはご自由にどうぞ”

一見すると自由で逞しく見える個人主義社会ですが、
実際は「収集がつかなくなるから多様な道を前もって用意しておこうか」
と、やや乱暴とも取れる選択肢の広さが
今に見る多様性社会(ポリティカルコレクトネス)の成れの果てです。

日本人として決して変わらない価値観。
それは時としてデメリットになったり
海外生活が不便に感じる時もありますが、

他人と違っていても「去り際の挨拶がきちんとできて、
その姿が美しい人は結果的に残せる物がちゃんとある人」だと
私は信じています。

最後の最後に「ありがとう感謝しています」
この言葉が言える人は、
ありがとうと同じくらいの「さようなら」を深く
理解出来ている人だと思います。

別れ際はサラッと、そして
終わりは楽しい世界が開けて行く希望の瞬間!
これはこれで現実の悲しみを誤魔化すには有効だけれど、
私はこれからもどんな国に住んでも、
”感動や感銘を受けた時”はひと目はばからず泣きじゃくる
マイノリティーで在りたいです。

今時手書きカード?と思われても、
「感謝の気持ちを文字に託す美徳」は日本人としても、
そして個人の思いとしても、
ずっと守り続けて行きたいなと思いつつ
明日から夏休みで静かになる校舎を後に何か一つの決意のようなものを
残せた午後でした。

自分の価値観にフィットしない文化に無理やり
自分を押し込む必要もなければ、
多様性なんて言う「実は無」の言葉に惑わされずに
自分の意思と意識をうまく統合させていく。
それこそが本来の”自由な生き方”なのではないでしょうか?


グレイス


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