やっぱり、カウンセリングじゃない

▼前回

カウンセリングじゃない、というよりカウンセリングでは足りない。
タイトルのそれは、心の問題を頭や言葉で解決しようとしても難しい、という確信だ。

以前も少しだけ書いた(フォーカシングって。)のだけれど、前回までに書いてきたワークショップで確信に変わったのだ。
つまり、「カウンセリングでは治らなかった」のは必然だということだ。

感情は理性の隣、たとえば脳にあるような思い込みがある。
けれど、感情は身体にある。
「感情と臓器」と検索してみれば、そのような記事や本はたくさんある。

この記事では、身体には記憶が残っていることを書いた。
この ” 記憶 ” とはエピソードだけではなく、感情の記憶を含む。
エピソードに紐づいた痛みや怒り、喜び、悲しみ。

日本語というのは、それを見事に表現しているから不思議だ。
頭に血がのぼる、胸を焦がす、足が重い、頭が固い、顔色をうかがう、面の皮、一目置く、耳が痛い、眼中にない、心臓に毛が生えている、肝が小さい、肝に銘じる、臍を曲げる、腰が砕ける、尻が軽い、二股をかける、、、
特に ” 腹 ” に関わる言葉がしっくりくる。
腹に一物を抱えている、腹に据えかねる、腸が煮えくり返る。
怒りなどネガティブなエネルギーが溜まる場所というエネルギーの体感と合うのだ。

身体は楽器なのだと思う。
感情という音だけで在るときそれはまだ存在として薄く、身体を通るときに感情は立体感を得て、増幅し、伝播し、共鳴していく。

だから、それを頭で理解して言葉にしようとするのは難しい。
3Dが平面になってしまうというか、英語で表現できない日本語みたいだ。
小説とか歌詞とかがあるじゃないと思うひともいるだろう。
けれど、それは行間を読むひとが自分の中身をその内容に投影しているから成立するのだし、その難しい作業(3Dのものを3Dとして近い表現をできる)をするからプロなのだし、そこにはやはりエネルギーがこもる。

自分の感情を身体を通さずにそのまま言葉にするとき、その感情の実態の10分の1に満たないものになるに違いない。
その作業に苦痛を伴うのであればなおさらのことだ。
だから、カウンセリングで治らないのではないか。
わたしはカウンセリングで治ったというひとに実はあったことがない。
解決しないんだ、そう諦めて問題を棚に上げて日常に戻ったひとや、気休めになったよ、という一時的なうつ病からは回復したひとはいたけれど、根本的にカウンセリングだけで解決したひとは見たことがない。
ヨガとか、瞑想とかで回復したひとには会う。

身体というのは、とっても繊細で色々な叡智が詰まっているのに、なぜか「体育会系」みたいなイメージがついてしまっているのだ。

ちなみに、感情を身体を通じて感じるとか、身体を使って癒すという考え方は心理学や他の学問と矛盾しない。
以前紹介したフォーカシングもだけれど、ゲシュタルト療法もあるし、さとう式リンパケアとかでも同じようなことを言っている。

治るとか癒すには、感情を感じきるということが絶対的に必要で、感じ切るにはカウンセリングという言葉や思考を使った理性的な手段は向かない。
感情の問題なのだから、感情で解決するのが合っている。

治らないひとはたいてい頭でっかちだ。
理性を重視し、感情を愚かだとかコントロールする必要があると思っている。
わたしはそうだった。

その考え方を正反対に、常識とかとは反対の方向に歩くのが正解だったりする。

「治そう」と「考えた」ひとが医者に行き、カウンセリングに行き着く。
王道パターンだけれど、それでは治らなかった経験者は多いし、医者やカウンセラーは治るというだろう。
けど、わたしは何回であるいはこれくらいの期間で治りますよと明言する医者やカウンセラーにあったことがない。
そして、わたしが優秀だなと思ったお医者さんやカウンセラーさんはカウンセリング単体を勧めなかった。フォーカシングやら自助グループやらヨガやら、そのひとに合うものを探すように、と口を揃えて言ったし、治すのに20年かかるかもしれないと教えてくれた。
普通の病気なら、治療期間の目安はあるし、余命もわかるのに。

なんで、20年前に気づけなかったんだろう。
その後悔から、経験談を書いている。
わたしは、治る道のりを知っている。
その道は険しいけれど、ゴールがあることを知っている。

続きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?