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「生きたい」か「死にたくない」か

「生きたい」か「死にたくない」か。

同じ生きるにしてもその違いは大きいと思います。


「生きたい」生命エネルギーに溢れている。例えるなら炎のようです。

ツアーの移動中、高速道路で事故にあったバンドのライブがそこから真に迫るものに変わったという話を聞いたことがあります。

大切な人を亡くしたことが強く胸に残っている人も「明日死んでも後悔しないように」を本気でやっているように思えます。

燃えるように生きている人はどこかで死を身近に感じているのかもしれません。


鬼気迫る生き方を見てこんな風に今を生きなきゃなと思いながらも、その刹那的な生き方にどこかしっくりこない自分がいました。

僕が「死にたくない」側の人間だったからです。
理由は単に死ぬのが怖いからです。

生に対して積極的ではない。例えるなら流れる水のようです。

炎を見て羨ましくなることも多々ありますが、水だって立派な生命エネルギーです。もう全部やめちゃいたいと思ったことは何度もありますが「死ぬのが怖い」おかげでその全ての困難を乗り切りました。


ドラゴンボールのクライマックスでベジータが悟空に向けて語るシーンがあります。

なんとなくわかった気がする・・・
なぜ天才であるはずのオレがお前にかなわないのか。
守りたいものがあるからだと思っていた・・・
守りたいという強い心が得体の知れない力を生み出しているのだと・・・・ 
確かにそれもあるかもしれないがそれは今のオレも同じことだ。
オレは・・・ オレの思いどうりにするために、
楽しみのために、敵を殺すために、そしてプライドのために戦ってきた。
だがあいつは違う・・・
勝つために戦うんじゃない、
絶対負けないために限界を極め続け戦うんだ! 
・・・だから相手の命を絶つことにこだわりはしない・・・
あいつはついにこのオレを殺さなかった。
まるで今のオレがほんの少しだけ人の心を持つようになるのが
わかっていたかのように・・・
アタマにくるぜ!戦いが大好きでやさしいサイヤ人なんてよ!! 
・・・がんばれカカロット
・・・お前がナンバー1だ!!

「勝ちたい」か「負けない」かは「生きたい」か「死なない」かと似ていると思います。そして分かるのが「死にたくない」と「死なない」も違うということです。


ベジータが炎。悟空は水。
だけど僕はドラゴンボールを読んでベジータに共感してしまいます。

悟空が人間っぽいところをほとんど見せないからというのもあるでしょうが、僕が水側でありながら炎の生き方に憧れていたからなのかもしれません。

もともとの性質と反比例した生き方をしてきたわけですが結果として歩いた道は炎の道だったので、気持ちが重なるのはベジータなんですね。

つまり僕は炎にもなれないし、水としても中途半端だった。素直でもなく演じきれもせず、妥協して疲れてを繰り返し、手にした感覚が「なんとなく死にたくない」だったのです。

果たしてそれは「生きている」と言えるのでしょうか。

他人の生き方にとやかくいうつもりはありません。ただ自分が生きていく上でそれは決して「生きている」と呼べない気がするのです。

悟空は死なないために戦っている。僕はなんとなく死にたくなくてごまかしている。


2月は気持ちが落ち込んでしまうことが重なっていて、なんとか脱却しようとしているのですが、どうにもこうにも失敗や変化の面倒くささにやられてしまいそうになっています。

そこをまた燃えることで乗り切ろうと思ったけど、さっき家に帰ってきてふと「あれ、僕って生きたい側じゃなくない?」と考えのタネが芽吹いたのです。

「死にたくない」側の人間が命を輝かせられる生き方。それは心からの「死にたくない」つまり「死なないを選んでいくこと」ではないでしょうか。

さっきも言いましたが水も立派な生命エネルギーです。「死なない」ように生きれば炎とは違うけれど質量は負けない力が出せるはずです。

ドラゴンボールでは悟空が上をいきましたが、この社会ではそれぞれに居場所を持つことができます。誰かが作ってくれたりもします。

炎も水も優劣はない。結果として「生きている」かどうか。


僕には死ぬ勇気がありません。だって怖いから。
僕は炎になれません。流れるものだから。

それならちゃんと水として流れよう。
どうせ生きるなら希望を見ながら笑えるように「死にたくない」を思い切りやろう。

いつか流れが止まっても、歩んできた轍やたまった水たまりが誰かの潤いになるように。

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