ウィズ・コロナ時代の経営守るべき原則・とるべき行動 (1)
はじめに
二人の息子が、兄弟二人でキッチンカーを始めると言い出しました。コロナで、飲食店が苦戦をしている中で、新しい中食ビジネスとしてキッチンカー事業は伸びており、やり方によってまだまだ将来性があるというのです。
調理師経験のある兄が作り、アパレル会社で販売経験のある弟が接客をして、まずは二人で立ち上げると言います。そして、料理も接客も経営も工夫して経験を積み、営業車を増やして、心や体に何らかの問題を抱えていてコロナで働けない人たちに楽しく働ける場を提供したいと言います。
息子といっても、二人とも40代前半ですが、どちらも事業立ち上げの経験がないばかりか、そもそも経営経験が全くありません。資金も、経験も、人脈もない、まさしく0からの出発です。
でも、私はさして迷わずに息子たちの企てに賛成しました。経営とは無から有を生み出す行為、冒険(アドベンチャー)だと思っていましたので、中年に達した息子たちの挑戦心(ベンチャースピリット)に「ヨシ」と声援を送る気持ちになったのです。
経営は冒険だからこそ、成功するためには守らなければならない原則があります。また、経営の本質や原則は変わらなくとも、時代の変化とともに顧客のニーズが変わり経営者に求められる行動も変わったりします。
私は30代半ばから30数年間、被雇用のサラリーマン経営者として経営に従事し、数年前にリタイアしました。10年前に自分なりの経営経験を小説に仕立てたことがありますが、コロナ禍で社会が大きく変わった令和の時代に、改めて経営経験を振り返りながら、求められる経営者像を文章にしてみよう、と思いました。息子たちのように経営経験はなくても何か新しい事業をはじめたい人に、参考になるかもしれないと思ったからです。
1、著者自己紹介
私は昭和23年(1948年)生まれです。昭和42年(1967年)に大学に入学しましたが、この年から3年間ぐらいは日本中で学生の政治運動、反政府活動が盛り上がった学生運動の季節でした。
私も御多分にもれず激しい学生運動の活動家として、授業に出るよりデモに出る方が多い学生生活を送りました。何度も逮捕されて長い拘置所暮らしを送りましたが、昭和45年(1970年)頃にはもう学校からも運動からも離れてしまっていました。
その頃から文章を書いたり、映画を作ったりすることに興味がありました。大学をドロップアウトした後、業界新聞の記者から職業生活をスタートして10数年間、取材・執筆・編集や映像関係の仕事をしました。
小さな会社を点々とし、自分たちの作りたい映画を撮るために映像プロダクションを立ち上げたり、住む所も大阪、東京、沖縄の各地を点々としました。
昭和58年(1983年)、その当時は沖縄に住んでいましたが、学生時代の知人の紹介で、東京の教育関係の仕事(専門学校)に転職しました。
専門学校は昭和51年(1976年)に、高校卒業後の進路として新たに制度化され、高学歴志向の高まりと高度な専門職へのニーズ拡大から、新しい学校の開校が続いていました。私が入職した職場も次々と新学校を開校していました。
この職場以前の私は現場叩き上げの職人のような存在で、仕事は自分の技だけに頼って組織的なものではありませんでしたが、この職場では組織的な行動を求められました。
自分が組織でうまく生きていけるか、自信は全くありませんでした。ただ、年齢が30代半ばになっていましたし、収入や生活上の必要もありましたので、求められることに応えていこうとそれなりに努力しました。
数年後、昭和の終わりに、一つの組織(学校)の経営を任されるような立場になり、平成元年(1989年)には、複数の学校の経営に責任ある立場になっていました。
令和2年(2020年)に退職するまでの30数年間で、医療、福祉、スポーツ、バイオテクノロジー、美容、製菓・調理などの専門学校18校を関東、関西、九州、北海道の各地に新規開校、あるいは経営再建した経験を通じて、組織経営の原則を学びました。