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不登校の子と「死」について話しあった

スクールカウンセラーと死

スクールカウンセラーは「死」のテーマに出会うことがある
「死にたい」「生きていたくない」と語る思春期のカウンセリング
自傷行為や自殺願望を持つ子たちの向かいあう
対応に困っている親や先生たちにアドバイスすることもある
子どもの自殺は食い止めなければならない
そのための努力は惜しまない

それををふまえた上で、少しちがう目線で「子どもと死」について考えよう

たしかに死は遠ざけたいことだ
だからといって子どもが「死」を口にしたとき、黙らせてしまうのはどうだろう?
子どもは「人はいつか死ぬ」という現実と出会うことがある
そして「なんのために生きるのか」について考えるようになる
そういうとき、いっしょに「死と生」について話しあう相手が必要ではないだろうか?
 

ある少年との会話


中学2年の不登校の男の子の母親から電話が入った。
「うちの子が、しきりに死ぬことを言いだしたんです。どうしたらいいですか?」
お家に訪問してリビングのソファーでうつむく彼と話しあった
 
「最近わからないことが多くて考えるとますますわからなくなる 」
「どういうこと?」
「生と死はどちらがいいことなのか、とか。善と悪というのはどちらがいいことなのか 正しいとか間違っている、というのはどうしてそうなのか?とか・・」
「たとえばどういうこと?」
「人を殺すことが悪いことだっていうけど・・でも殺される人がこれから人をたくさん殺す人間だったら、その人を殺すことは、たくさんの人を救うことになるかもしれないし。だったら、それは悪いことなのか 」
「ああ なるほど」
「そう考えると、いいことと悪いことってどうやって決めるのか、わからなくなる・・大体いいことが本当にいいことなのかもわからないし 」
「僕も正直わからないな。たとえば人を殺すことは犯罪で悪いことだけ
ど。戦争ではたくさんの敵を殺すでしょう?」
「そういうのもわからない」
「そう。何が正しくて何が悪いのか?考えてもなかなかわからないことってあるね」
「・・それから。自殺することは悪いことだっていうけど・・今すごいつらい状態なら、死ぬことの方を選ぶことはいいことなんじゃないかって」
「ああ。なるほど」
「お母さんは、そういうこと言うと『残された人が悲しむから自殺はいけない』って言うけど・・・じゃあ誰も悲しむ人がいなければ死んでもいいのかって思う」
「・・・・・」
「生きていかなければならない理由がよくわからない・・死ぬことと生きていることのどっちがいいのかよくわからない」
「・・なるほど」
「今生きていることの楽しさってないし。なんで人間が苦しい思いをしても生きていたいのか、わからない」
「今、生きていることは楽しくない?」
「楽しいことはあまりない」
「楽しいことは、少しはある・・のかな?」
「面白いゲームをやっているときくらいかな。でもゲームはやっていればいつか終わるし、いつまでも面白いゲームがあるとは限らない。面白いゲームがなくなったら、生きている意味もなくなるのかもしれない」
「もし そうなったら、どうすると思う?」
「わからない」
「生きていることと、死ぬことのどっちがいいのか、わからないと言ったけど。もしも面白いゲームもなくなって生きていることが楽しくなくなったら、死んでもいい、と思う?」
「わからない。死ぬとどうなるかわからない。天国と地獄があるって言う人もいるけど、死んだ後どうなるかわからない。わからないのは不安だし、死にたいとは思わない」
「生きている方を選ぶ?」
「わからないけど。多分そうする」
「そう。どちらかというと生きる方を選ぶ、ということね。今はそれでいいと思うよ」
「・・でも、わからないことばかりあるし。色々考えても、考えても答えがでない。」
「答えか・・答えが出るかどうかわからないけど、あなたにとって、わからないことを考えることってつらいこと?こうやってわからないことについて話し合うことって、つらいこと?」
「そうでも、ない。わりと平気 」
「そう。それはうれしいな。私はあなたと話すことはとても楽しいよ。また話しに来てもいいかな?」
「別にいいけど。・・わからない。今日は話せたけど、また気持ちは変わるかもしれない。とにかくわからないことが多くて。わからなくないのは、自分がわからないと思っていることくらい」
「つまり、今のあなたにとってはっきりしていることは、ただ一つ 自分がわからないことを考えている、ということ そういうことかな?」
「そう」

このとき私の心には
(われ思う ゆえにわれあり)という言葉がうかんでいた・・


思いを共有する


このあとも、ちょくちょく家庭訪問をしていたけど、死について話題になることはなかった
たいていは好きなアニメやゲームの雑談だった
彼はこのあと卒業まで学校に来ることはなかった
ただ、自殺についてはこれ以降口にすることはなくなったようだ
あのとき生と死について話したことがなにかの変化につながったのだと思う
「わからないという思い」を共有されたことで、不確かであっても生きる方を選んだのではないか

そしてこうも思う
「死にたい」と思う子どもたちは本当は「生きる意味」を求めているんじゃないだろうか?

※実際の事例とは内容を変えています


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