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ひまわり泥棒コバト

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記事一覧

ひまわり泥棒コバト 11

 開店とほぼ同時に先生が来ることは珍しい。とても疲れ切った顔をしていて、注文したレバーの数はいつもより1本多い、3本。疲れているからレバーを食う、なんて単純というかなんというか。 その上今日は中ジョッキだなんて言うものだから、さすがに俺も口を出してしまった。
「たくさん飲むのは、やめといた方が」
「なんでですか」
「先生の顔がいつもよりお疲れだから……」
「……じゃ、小で」
 本当は小ジョッキです

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ひまわり泥棒コバト18

 私の部屋に入るなり、コバトさんは南向きの掃き出し窓へ一直線にすたすたと近寄って私の了解も得ずに鍵を開けた。そのつもりで連れてきたのだから、別にいいのだけれど。
 からからと音を立てながら窓が開くと、熱気のこもった部屋に外の空気が入り込む。外も夕方とはいえまだ暑いので、清涼感などはない。
「ああ、なるほど。ここからならよく見えそうですね」
 コバトさんはそう言ってベランダに出ようとした。が、ぴたり

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ひまわり泥棒コバト 17

 いくら電話をかけても捕まらない作家がいる。やっと連絡がついたのが昨日で、彼は「明日なら会える」と言う。土曜の午後を指定してきた彼はきっと、普段通りならば私が土曜休みだということを知っている。腹が立つ。腹は立つが、彼の作品はやはり面白いのだ。
 彼を手放すことは我が社の痛手になる。私も社会人としてそれをわかっていて、休日を返上して彼に会いに行った。彼の本業は小説家だが、以前にいた部署で私が彼の処女

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ひまわり泥棒コバト 14

 コバトさんの庭は青臭い。トマトを育てているからだ。わたしはトマトが嫌いだ。あの、ぬるりとした種の食感と匂いがだめなのだ。たとえコバトさんに勧められたとしても、食べることはできないだろう。子供の頃からそうだ、わたしは生涯トマトとは仲良くなれない。
 わたしは青臭い庭の間を通ってコバトさんの家の玄関まで行くことができる。勝手に入って来てもいい、とコバトさんに以前言われたけれど、それはさすがに気がひけ

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ひまわり泥棒コバト 12

「もう諦める?」
 赤ペンを片手に自分のデスクで後輩のまとめた原稿に目を通していた私の頭上から、声がした。目を上げれば編集長の城山さんが、開いたノートパソコンの上からこちらを覗き込んで微笑んでいる。
「諦める? 何を? あ、これ? いや、内容自体はちゃんとしてますよ」
 私はそれまで読んでいた原稿の束をひらひらと振った。これを書いた新人の桐谷ちゃんは、顔のつくりとやる気には100点満点をあげてもい

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ひまわり泥棒コバト 16

 俺は店の二階に住んでいるので、散歩や買い物以外で外に出ることがあまりない。日常のものは徒歩や自転車で間に合う距離で事足りてしまい、電車に乗ることもそう多くはない。が、電車に乗ること自体は好きだ。座れた時に限るけれど。帰宅ラッシュを過ぎた平日の夜は、悠々と座っていられる。適度に酔っ払って薄っすら目を伏せて揺られていると、とても気持ちがいい。
 がたんたんがたん、がたんたんがたん。規則的に響くリズム

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ひまわり泥棒コバト 15

 コバトさんの庭は青臭い。トマトを育てているからだ。私はトマトが嫌いだ。火を通せばいいのだけれど、生トマトのあの香りが子供の頃から苦手だ。プチトマトですら許せないものがある。私は生涯トマトとは仲良くなれない。
 コバトさんの青臭い庭に入る前に、私はいつものように門扉の呼び鈴を押す。ビィ、と古めかしいブザーが家の方で鳴り、しばらく待つとコバトさんが玄関から顔を出した。イエローのアロハシャツ。
「今日

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ひまわり泥棒コバト 13

 あのふたり、どういうことになってるんだろう。
 コバトさんは編集さんの家へ行くようになった。泊まったのはあの一回だけなのか、それともその後も何度かお泊まりしているのか。まあ、俺が考え込むようなことでもないのだけれど。
 コバトさんは雑誌の取材を頑なに断り続けているけれど、編集さんのことが嫌いなわけではないらしい。湯葉を分けてやったり、自分から家へ行っていいかと訊いたり。
 コバトさんも大人だ、恋

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ひまわり泥棒コバト 10

 〆切日、深夜。もとい、〆切翌日、早朝。ささくれ立った表情の佐野さんが原稿用紙の角を揃え、剣呑な目でわたしを睨んだ。
「確かに、17ページ、いただきまし、タッ」
 最後はほぼ舌打ちだった。わたしは椅子を降り、深々と土下座する。
 佐野さんは本来ならば昨日の夕方には原稿を持って帰社しなければならなかった。しかし彼の担当する無能な作家、つまりわたしがまだ扉絵しか完成させていないことを知ると手ぶらで一度

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ひまわり泥棒コバト 9

 そろそろスーツがしんどい気温だ。私は脱いだジャケットを腕で抱え、滲んだ汗を拭きながらいつもの道を歩いた。ジャケットを脱いだって暑いものは暑い。コバトさんのアトリエへ向かう道。
 私の家からコバトさんのアトリエまでの間に、広い庭を持つお宅がある。その庭でもたくさんの花や緑や野菜を育てているようで、まるでコバトさんの庭はこのお宅の庭の縮小版みたいだ、と私は前を通るたびに思う。
 だからその庭の植え込

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ひまわり泥棒コバト 8

 午前3時までには寝る。昼前には起きる。開店前にちゃんと飯を食う。俺が生活する上で心がけているのはこのみっつだ。
 店が休みの日でも寝る時間と起きる時間はできるだけ守るようにしている。一人で暮らしているとおろそかになりがちなことを、できるだけ自分でコントロールできるようにならなければ。

 今朝は少し早く目が醒めた。9時半を少し回ったところ。俺は散歩に出かける。今日は月曜、店は定休日だ。
 ぐる

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ひまわり泥棒コバト 7

 梅雨明けから少しずつ、夏へ向かっている。わたしは日々の光熱費に怯えて8月に入るまでは扇風機で過ごすと決めているが、湿気と熱は漫画家の大敵だ。湿気でインクはかびてしまうし、暑ければ汗をかきその汗は原稿用紙を濡らす。
 師匠のところでアシスタントをしていた頃は付けペンに黒インクで作品を仕上げていたが、いざ自分がデビューしてみると画材の管理が行き届かない。わたしは自他共に認めるずぼらな人間だ。梅雨時に

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ひまわり泥棒コバト 6

 私はコバトさんの作品を引き出しから引っ張り出した。
「どうです」
 その大きな布を見せると、私の隣にしゃがみ込んでいたコバトさんは笑った。
「本当に僕のですね」
「そうでしょう」
「でも、それ、珍しいものですよね。あまり色数を使わずに織ったから、僕もよく覚えてます」
 そう言ってコバトさんは、青と白の幾何学模様をすうっと撫でた。そこで私は初めて、コバトさんの手は案外に毛深いのだなということを知る

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ひまわり泥棒コバト 5

 編集さんはきっと、仕事熱心な人なのだと思う。今日もコバトさんを探しにうちへやって来た。まだ開店前、仕込み中の午後3時だ。
「大将、コバトさんはいらしてますか」
「…………」
 本当はすぐ返事をするべきなのだろうけど、俺はうずらの卵を茹でなければいけない。今やっとお湯がぐらりと湧き始めたところで、ほんの数秒で硬さが違ってきてしまうから今はそちらよりこちらの事情を汲んでほしかった。
「ねえ、コバトさ

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