ひまわり泥棒コバト 9

 そろそろスーツがしんどい気温だ。私は脱いだジャケットを腕で抱え、滲んだ汗を拭きながらいつもの道を歩いた。ジャケットを脱いだって暑いものは暑い。コバトさんのアトリエへ向かう道。
 私の家からコバトさんのアトリエまでの間に、広い庭を持つお宅がある。その庭でもたくさんの花や緑や野菜を育てているようで、まるでコバトさんの庭はこのお宅の庭の縮小版みたいだ、と私は前を通るたびに思う。
 だからその庭の植え込みの中からコバトさんが顔を覗かせた時、私はさして驚かなかったのだ。
「……こんにちは」
 コバトさんは私の顔をしばらく眺めてから言った。
「こんにちは」
 私も応えて言う。「何なさってるんですか」
「いえね、ちょいと花がきれいだったものですから」
 そう言って笑うとコバトさんは植え込みの中へ顔を引っ込め、その家の白く可憐な作りの門扉から堂々と現れた。
 コバトさんはいつものスラックスの裾を膝頭のすぐ下まで捲り上げ、黒いシャツの袖も肘までたくし上げていた。両腕と両足は土で汚れていて、もちろんいつものサンダルも泥だらけだ。さっき植え込みから出てきたコバトさんの顔に驚かなかった私は、コバトさんのその姿に少しだけ驚いてしまった。泥だらけの手足もさることながら、コバトさんは右手に小ぶりなひまわりを三本握りしめ、なにやら四角く平たいケースの入ったビニールの手提げ袋を左手からぶら下げている。
「……何なさってたんですか」
「花がきれいだったもので、ちょっと拝借してきました」
 コバトさんは根元から掘り返されたひまわりを誇らしげに掲げた。本当に根元から、よくもまあきれいに掘り返してきたものだ。
「拝借だって。返すんですか?」
「ふふ」
 私が訊くと、コバトさんはただいつものように肩を揺らしただけだった。
「泥棒みたい。悪い人ですね、コバトさん」
「ふふ」
 きっとコバトさんは、普通にあの家の人に頼んで花をもらってきたのだろう。そうでなければおかずまでもらって堂々と表から出入りするはずはない。コバトさんのぶら下げている袋の中が薄く透けて見えるがその色合いはどう見ても、煮物か何かの入った蓋の青いタッパーだ。
 私はそのままコバトさんについていった。取材の話を何度か会話に挟ませても、コバトさんは笑ってはぐらかすだけだ。あの日私の部屋であんなに近くにいたコバトさんがまた遠い。
 けれど私はきっと、コバトさんから嫌われてはいないはずだ。この間のあれは、嫌いな人間に対する距離感ではなかった。あれ以来私はコバトさんから取材の許可を得ることに始めほど固執しなくなった。こうしてつきまとったいるのは、コバトという男への個人的な興味になりつつある。
「ねえ、コバトさん。私決めましたよ、布の使い道」
 私が言うとコバトさんはぱちぱちと目を瞬かせながら私を見た。
「本当ですか。よかった」
 コバトさんは笑って、また前を向いた。もうあと数歩でコバトさんの家の門だ。
「ええ。見にきますか」
 言っている間に着いた。小さなコバトさんの家。
「今日はだめです。足が汚れてるから」
 コバトさんはそう言って門扉を開け小さな庭へ入った。沢山の草花のひしめくコバトさんの庭には、もちろん水道がある。コバトさんは蛇口からホースを外すと、そこで足を洗い始めた。私は門扉よりも内側へは入らず、ばしゃばしゃと足をに水をかけるコバトさんを見ていた。
 コバトさんはふいと目をあげると、私がそのまま立ち止まっているのを見て不思議そうな顔をした。
「入って来ないんですか」
「私は社へ戻ります」
「そうですか」
 コバトさんはにっこりと笑ってくれた。「それでは、行ってらっしゃい」
 コバトさんに見送られ、私はきた道を戻る。嫌いではない人から言われる「行ってらっしゃい」には、とても暖かな力があった。

 夜、私は「やま」へ向かった。やはりコバトさんは今日も静かにひとりで飲んでいた。この店は相変わらず人が少ない。金曜の夜にコバトさんといつものおじさんだけだ。
 それにしても、この人はちゃんと食事をしているのだろうか。私が見るときはいつもネギや椎茸ばかり食べていて、本数も多くはない。コバトさんの前に置かれた串入れにも、串が沢山ささっているところを見たことはなかった。他のものを食べたとしても湯葉かキャベツだ。
「生と、ぼんじりとモモね」
 とりあえず食べたいものを注文しながら私はコバトさんの隣に座った。コバトさんは私の方を見て笑う。
「またお会いしましたね」
「ええ。このお店、最近の私のお気に入りなんです」
「取材してみますか」
「それはまた、別のお話です」
 私が言うと、コバトさんは一瞬きょとんとした目で私を見てそれからまた肩を揺らした。コバトさんが私の家で言ったのと同じ言葉で返してやったことに気付いたのだろう。大将はそんな私たちを不思議そうに見ていた。
「足を洗って、きれいになりました」
 コバトさんが言った。足元を見ると、もう泥はついていなかった。まだついていたらそれはそれで、大人として少し心配してしまうけれど。
「布の使い道、知りたいですか」
 私が訊くとコバトさんは頷いた。
「そうですね、少し」
「では、お腹がいっぱいになったら」
「僕はもういっぱいです」
「私は今来たところです。まだビールも飲んでません」
 そうでしたね、とコバトさんが笑い、大将はびっくりしたように眉を下げて私に中ジョッキを差し出した。
 男の人を部屋へ招くなんて大それた真似が、なぜこうも簡単にできてしまうのか。それは相手がコバトさんで、そのコバトさんが私のことをそう嫌いではないとわかっているからだ。

「趣味がいいですね」
 そう言ってコバトさんは、床に座った。自分の織った布の上へ。
「そうでしょう」
 私は得意げになって答えた。私は結局、本来この布を買い求めた当初の使い方を選んだ。コバトさんの織った青と白の幾何学模様は、今は私の部屋のフローリングを覆っている。
「これは眩しすぎなくて、でも明るい色で。明るい色を床に敷けば部屋が明るくなります」
 言って、コバトさんはさらりと掌で敷布を撫でた。「手触りもいい」
「名のある作家さんが織ったものですからね」
「本当に? どうりで素敵な部屋だと思った」
 コバトさんは私の冗談に乗っかり、私たちはけらけらと笑い合った。どちらも陽気だ。
「コバトさんは、私の他にもご自分の作品を使っているお宅へ行ったことあるんですか?」
 私はコバトさんの向かいに座りながら訊いた。
「いえ、編集さんのお家が初めてです」
 コバトさんは朗らかに笑い、そして、私は今朝コバトさんが植え込みの中から出て来た時よりも驚いてしまったのだけれど。コバトさんはそのままくったりと横になってしまったのだ。
「ちょっと」
「はあ、白で視界が明るいですねえ」
 コバトさんは布の織り目を見つめながらほうっとため息をつくように言った。コバトさんの目はとろとろとゆっくり瞬きを繰り返している。
「ひょっとしてコバトさん……酔っ払ってますか?」
「あの店にいる時はいつも飲んでますから、いつも酔っ払ってますよ」
 コバトさんは何がおかしいのかくすくすと笑うと、そのまま目を閉じてしまった。
「ねえ、ちょっと。寝るんですかあなた」
「……寝ませんよお」
 眠いですけど、とコバトさんは言い、目を開けてはくれなかった。
 どうしよう。確かに私はコバトさんのことが嫌いではないし、コバトさんも私のことが嫌いではないことは今の状況で証明されている。だからといってこのままコバトさんがここで眠ってしまうことを許しても良いのだろうか。
「コバトさん、コバトさん」
 肩を揺すってみたが、コバトさんは微笑むばかりで返事をしない。次第に呼吸がゆっくりになっていき、やがてそれは寝息へと変わっていってしまった。
「……参ったなこりゃ」
 私はとりあえず、コバトさんの細い肩にタオルケットを一枚かけた。変な人だ、と私は思う。肉を口にせず野菜を食んで暮らす仙人。人嫌いなのかと思いきや隣人を慈しむ。けれど少し意地悪で、お酒は好きで、一度距離を詰めたらその詰め方が早い。
 コバトさん、あなたは何者なんでしょうね。


(ひまわり泥棒、ひまわりを盗む)

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