ひまわり泥棒コバト18

 私の部屋に入るなり、コバトさんは南向きの掃き出し窓へ一直線にすたすたと近寄って私の了解も得ずに鍵を開けた。そのつもりで連れてきたのだから、別にいいのだけれど。
 からからと音を立てながら窓が開くと、熱気のこもった部屋に外の空気が入り込む。外も夕方とはいえまだ暑いので、清涼感などはない。
「ああ、なるほど。ここからならよく見えそうですね」
 コバトさんはそう言ってベランダに出ようとした。が、ぴたりと足を止める。何かを考え込むように自分の足元を眺め、それから私の方を見た。
「出ないんですか」
 私は訊いた。
「出ますけど」
 コバトさんはそう答えてから、小さなかばんから青いビニールのシートを取り出した。コバトさんのレジャーシートは、ニュースの事件現場や刑事ドラマで都合の悪いものを覆い隠すあのブルーシートだった。コバトさんはそれをベランダに敷くとよし、とうなずいてベランダへ出、得意げに振り向き私の方を見る。
「こうすれば足が汚れません」
「……サンダル履けばいいのに」
 ベランダには、私が普段洗濯物を干すために履くサンダルが一足ある。「コバトさん、潔癖症でしたか」
「一足しかないじゃないですか」
 コバトさんは笑う。「編集さんも見るでしょう、花火」
 つまりこの人は、私と並んで花火を眺めることをよしとしたのだ。
 そのことを私はとても嬉しく思った。この人と肩を並べて花火を眺める。仕事の話はさせないくせに、こうした季節のイベントを私と過ごそうと言うコバトさんのことを、私も悪くは思っていない。
 しかし、しかしだ。残暑の厳しい9月、ひと仕事終えてきた私は汗だくで、ベランダに出る前に、否、コバトさんの隣に並ぶ前に汗を流してしまいたかった。せめて、着替えだけでも。
 自分からコバトさんを家へ招いておいて席を外すのは失礼だろうか。そう思いながらベランダへ目をやると、背中を丸めたコバトさんの小さな後ろ姿があった。ゆるい風がコバトさんの髪とアロハシャツの裾を揺らしている。
「コバトさん」
 私はその後ろ姿に声をかけた。この人は私が今から風呂場に向かっても気にせずこの狭いベランダを楽しむことができる、という確信を持ったからだ。
「はい」
 コバトさんは振り向きもせずに返事をする。まだ花火も上がっていないのに、何を楽しんでいる時間なのだろう。
「今日は汗をかいたので、私は今からシャワーを浴びようと思うんです」
「どうぞ。僕はここにいますから」
 やはり振り向かずにコバトさんは答える。話が早くて助かった。
「では。好きにしててください」
「行ってらっしゃい」
 まただ。前にも同じ響きの「行ってらっしゃい」をこの人から聞いた。なぜだろうか、この人の声は私の背中を力強く押す。ただ私は、風呂場へ行くだけだというのに。

 シャワーから上がっても、コバトさんの背中はベランダにあった。私はタオルを頭に巻いたままベランダへ出た。
「おかえりなさい」
 コバトさんは空を見つめながら言った。まだ暗くなりきってはいない夜。
「……ただいま?」
 不思議な気分だった。自分の家の風呂場へ行くだけで「行ってらっしゃい」と言われ、自分の部屋からベランダに出れば「おかえりなさい」だ。まるで、コバトさんが私の帰る場所のように。
「花火、もうすぐですよ」
 コバトさんはアロハシャツの胸ポケットから携帯電話を取り出して、画面の背に浮かんだ小さなデジタル時計を私に見せた。
「ガラケー、久しぶりに見ました」
 彼の持つ黒い機種は、私が昔使っていたものと同じだった。そんなことが、少しだけ嬉しい。
「僕にはこれで充分です」
「そのうちサービス終わりますよ」
「その時はその時です」
 コバトさんが笑うと同時に、生温い風が私たちの間を吹き抜けていった。
 濡れた髪を乾かす時間が惜しい。本当はきちんとドライヤーで乾かしてヘアオイルまでつけたいのだけれど、今日はさぼってしまおう。
 もうすぐ、花火大会が始まるのだ。

#小説

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