ひまわり泥棒コバト 10

 〆切日、深夜。もとい、〆切翌日、早朝。ささくれ立った表情の佐野さんが原稿用紙の角を揃え、剣呑な目でわたしを睨んだ。
「確かに、17ページ、いただきまし、タッ」
 最後はほぼ舌打ちだった。わたしは椅子を降り、深々と土下座する。
 佐野さんは本来ならば昨日の夕方には原稿を持って帰社しなければならなかった。しかし彼の担当する無能な作家、つまりわたしがまだ扉絵しか完成させていないことを知ると手ぶらで一度社へ戻り、編集長に土下座してまたここへやって来たのだと言う。わたしに言い渡されたタイムリミットは今日の佐野さんの出社時間。
 わたしの横でアシスタントのハマちゃんも三つ指をついて頭を下げる。ハマちゃんは佐野さんよりも目測で15センチは背が高い大きな女の子だが、小さな佐野さんをとても恐れている。彼に嫌われれば自分のデビューも遠のくと思っているのだ。
「出社、何時でしたっけ」
 わたしはおそるおそる顔を上げながら尋ねた。
「8時半」
 佐野さんは眉間に皺を寄せ、原稿を封筒にしまい込みながら言葉少なに答えた。
「わ、わァ、まだあと3時間もありますねェ……」
「昨日の夕方できてりゃ家でゆっくり寝て普通に起きて出社してた」
「申し訳ございませんでした」
 頭を上げるのはまだ早かった。わたしはまた頭を下げる。プライド? そんなものは母親の腹の中に置いてきた。
 わたしたちは額を床にこすりつけたまま、佐野さんが立ち上がり乱暴にドアを開けて出て行く音を聞いていた。
 ドアが閉まりきると、ずっと息を止めていたのか大きく息を吸いながらハマちゃんが先に顔を上げた。
「いやもうほんと、あの人には頭上がらへんわ」
 地元の後輩でもあるハマちゃんは、真面目に漫画家を目指しているはずなのにわたしのアシスタントをしてくれている。もっと他にいい作家はたくさんいるはずなのに。わたしが漫画家の卵なら、絶対に滑川スネ子は選ばない。
「いや、ハマちゃんは顔上げてていいんだよ。悪いのはこっちなんだから」
「だって、佐野さん編集長に土下座した言うてましたやん」
「してるわけない。嘘だよ、こっちに罪悪感植え付けるための」
「まじすか」
「頭は本当に下げてくれたかもしれないけど」
 わたしのようなくずのために、上司に頭を下げてくれる人がいる。だからわたしは、自分の今ある仕事をしなければならない。佐野さんがわたしのために奔走する度、わたしが描きたいコバトさんは遠のいていく。
「いつもの、やりますか」
 ハマちゃんが訊く。
「やります」
 わたしは頷く。
「では、どうぞ」
 ハマちゃんに促され、わたしは大きく息を吸い込みそれを吐き出すと同時に叫んだ。
「何が『普通に寝てた』じゃボケ、お前ゆうべここで普通に寝とったやろがィ佐野のドグサレが! 徹夜しとんのはこっちばっかじゃおどれナメくさっとったら耳の穴から雲形定規突っ込んでそのきれいな鼻の形変えたんぞ。そもそもお前がダメ出し減らせばもっと早よ原稿終わるんちゃうんか! お前が止めるから下書きにすら進めへんのちゃうんか! なァ、どう思うハマ子よ!」
「耳の穴から雲形定規っていうのは無理がある思います。せめてホワイトの筆ぐらいにしときましょ」
「お前のそういう冷静なところ好きだぜ、ハマ子」
 そしてわたしたちは互いに深々とお辞儀をする。これはこういう儀式だ。佐野さんが帰ったあと、自分のことは棚に上げて佐野さんへの呪詛を吐くのだ。こうでもしなければストレスを溜め込んでしまい、漫画の悪役よりも先にわたしがくたばってしまう。
 今、わたしたちはとても汚い顔をしている。徹夜が肌に悪いことも理由のひとつだが、それ以上に根性の汚さが顔に出てしまっているのだった。
「ハマちゃん、このまま帰る? それともちょっと寝てく?」
「帰ります。今寝ると多分夜までここに居ってしまうから」
 予想通りの返答だった。寝汚いわたしたちは仮眠を取ることができない。熟睡してしまうからだ。だから原稿が切羽詰まった時は徹夜する以外にない。
 わたしは散歩がてら、ハマちゃんを駅まで送っていくことにした。早朝と言えど、空気は生暖かく湿っていて風もない。この季節、爽やかな朝など望んではいけないのだ。
 打ち水をして玄関先が濡れている家もいくつかあるが、それもすぐに乾いてしまうのだろう。むしろ空気中の湿気が増えやしないかとすら思う。
「あっつ」
 ハマちゃんが呟いた。
「言ったら余計に暑くなるよ」
 わたしが言うとハマちゃんは無理だ無理だと首を振る。
「言わずに腹に溜め込むとそのストレスがまた中から暑くなるんで」
「溜め込むの嫌いならハマちゃんも呪いの儀式やんなよ」
「それしたら矛先、佐野さんやのうてスネ子さんに行きますよ」
「……ですよね」
 わたしがさぼればその分ハマちゃんにもしわ寄せがいく。わかっている、わかっているのだけれど。「いつも悪いな」
「もう慣れました」
 これからもわたしはこの子に甘え続けていくのだろうか。お願いだハマ子、デビューして人気者になってもメディアでわたしの悪口だけは言わないでくれ。

 ハマちゃんを駅まで送り届け、わたしは別の道を歩いて帰った。もういっそのこと汗と共にすべての悪い感情を出し切って真人間になりたい。そんなことを考えながらふらふらと町を徘徊した。
 公園の前を通りかかればラジオ体操の子供たち。そこに混ざって近所のジジババも陽気に腕を振っている。むしろ年寄りの方が子供らより元気だ。わたしはこの辺りの子供たちから正体不明のおばさんだと思われている。年寄りに比べだるそうに体操をこなす子供たちはきっと、わたしが何をしているかを知らない。あの中にわたしのファンはどれくらいいるだろう。わたしが滑川スネ子だということは、コバトさんと大将くらいしか知らない。意図して隠しているわけではないが、わざわざ滑川スネ子ですと言って回ることもしない。もっと格好いい名前にすればよかった。
 公園を通り過ぎ、遠くなるラジオの音を耳に感じながらわたしはまた歩く。セミがもう元気だ。ハトはクルクルポッポと鳴いている。玄関先に縁台を出して麦茶片手に将棋を打つじじいたちはまだいない。犬の散歩をする名前も知らない奥様は挨拶をしてくれる。犬はわたしに吠えかからない。わたしの地元では考えられなかった、別料金でのモーニングセットを出す純喫茶ハラダはまだ開いていない。大将の店からも香ばしい匂いはまだ漂ってこない。コバトさんはどうだろう、もう起きて庭いじりなんかに勤しんでいるのだろうか。
 朝は寂しい。しかしこの無音ではない孤独が、原稿終わりのわたしにはちょうどよかった。帰ったら寝よう。夕方まで。それからまた焼鳥を食べに行こう。今日は中ジョッキにして少し長居しよう。そして明日は丸一日だらけて――。
 視覚的には静かな早朝だ。動くものがあればそちらに目をやってしまう。わたしの視界で動いたのはこぎれいな白いアパートの二階のドア。開いた白いドアから小柄な男が一人出てきた。男は半開きのままのドアから顔を覗かせている女に軽く会釈をし、女も会釈を返して男が歩いていくのを眺めている。黒い長袖のシャツをズボンにインして、とても静かに歩くその人は、どう見てもコバトさん。
 このままのスピードで歩けば、アパートの階段を降りてくるコバトさんと鉢合わせしてしまう。汗臭く汚い顔のわたしは、くるりと踵を返し全速力で走り出した。大将の店、純喫茶ハラダ、将棋じじいの家、公園の前をまた通り過ぎる。家に帰るには遠回りすぎる往復コースを走る。動悸がするのはきっと慣れない全力疾走をしているからだ。
 〆切を遅らせてしまったばかりに、なんだかやばいものを見てしまった気がする。コバトの朝帰り。



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