ひまわり泥棒コバト 11

 開店とほぼ同時に先生が来ることは珍しい。とても疲れ切った顔をしていて、注文したレバーの数はいつもより1本多い、3本。疲れているからレバーを食う、なんて単純というかなんというか。 その上今日は中ジョッキだなんて言うものだから、さすがに俺も口を出してしまった。
「たくさん飲むのは、やめといた方が」
「なんでですか」
「先生の顔がいつもよりお疲れだから……」
「……じゃ、小で」
 本当は小ジョッキですら渡したくはなかったけれど、お客の言うことだから仕方がない。早くコバトさんが来ないだろうか。コバトさんが隣にいれば、先生がビールをあおるスピードは落ちる。
 早朝に原稿を仕上げてからまだ寝ていない、と先生は言った。忙しかったのかと俺が訊くと、気がついたら夕方になっていたと先生は答えた。そこで会話が途切れてしまい、焼きあがったレバーを先生に渡したところで斎藤のおじいさんがやってきた。斎藤さんは今日も将棋では負けたらしいが、贔屓にしている力士が今場所では優勝が見えているだとかなんとかで上機嫌だ。
 斎藤さんは話し始めると止まらない人だ。俺はそっちの相槌につきっきりになってしまって、先生もそれをわかっているので必要以上にこちらへ話しかけて来ることはない。だからこそ早くコバトさんに来てほしかった。たぶん今日の先生は、誰かと話したがっている。
 斎藤さんはいつものようにとりとめもなく色々な話をした。昨日から奥さんが韓国に旅行に行っているのでしばらく自由を満喫するのだとか、お盆には息子さんがお孫さんを連れて帰省するので楽しみなのだとか、鈴木のおじいさんに明日は勝ってやるのだとか。この人はきっと、楽しい年の取り方をしているのだと思う。
「そうだ大将、夏が来たぞ夏が」
 斎藤さんはそう言って砂肝にかぶりついた。
「もう来てますよ」
 俺は苦笑いする。だってこんなに暑いんだもの。
「いやいや、コバトさんが今年も派手なの着て歩いてたんだって」
「なるほど、そりゃ夏ですね」
 派手なコバトさん。この町の夏の風物詩だ。
 コバトさんの話題が出たところで、俺は先生の方をちらりと見た。案の定、先生はこちらを見てにやりと笑っている。俺はそのにやりの意味がよくわからない。
「大将、生もうひとつ。あと心臓とレバー」
 にやにやしたまま先生が言った。いつもは時間をかけて小ジョッキを飲み終えるのに、今日はやけにペースが早い。ごきげんなのか、それとも疲れて荒れているのか。
「やめといた方が」
「いいよいいよ、飲みなよお姉ちゃん。おじさんが許す」
「ほうら、おじさんがいいって。小でいいから、くださいよお」
 俺は本気で心配しているのに、斎藤さんは呑気だ。けれどそれも仕方のないことかもしれない。先生と斎藤さんは本当にただの顔見知りで、互いに言葉を交わすのはきっとこれが初めてだ。先生はここにいる時、俺かコバトさんとしか話をしない。
 気の強い女と口の達者なおじさんのコンボに俺は負けてしまった。新しいジョッキを出し、そこにビールを注ぐ。
「ゆっくりですよ」
 俺はビールをなみなみと湛えたジョッキを手渡しながら言った。わかってますよお、と先生は笑い、空のジョッキをカウンターに置く。
 何だか今日は面倒臭そうな日だ。早く来てくれないかな、コバトさん。

 コバトさんが来たのは、先生が二杯目を半分ほどまで進めた頃だった。あまりにもゆっくりなので、斎藤のおじいさんは今場所に寄せる期待と展望を語り尽くしとうに帰ってしまっていた。
 しかし今日のコバトさんは斎藤さんが言っていた通り派手だった。目の覚めるようなブルーに散りばめられた椰子の木のイラスト。ああ、この町に夏が来たのだ。
「おや、先生。お疲れですね」
 いつものように首を少し傾けて、右肩を叩きながらコバトさんは言った。先生の方はいつものように眼鏡がずり下がっているわけでもないのに。
「寝てませんのでね」
 いつもと違う言葉で先生は答えて笑った。
「だめですよ、寝なきゃ。大将、焼酎とシシトウをください」
 コバトさんも笑い、先生の右隣に座った。先生はアロハシャツのコバトさんを不思議そうに眺める。
「今朝と着てたもの違いませんか」
 先生は言って、心臓を串からむしゃりと噛み取った。ああ、とコバトさんはブルーの襟を摘んでみせる。
「今日は暑かったので、着替えたんです。あれっ、今朝、僕、お会いしましたっけ?」
「散歩してる時にコバトさんをお見かけしまして」
「なんだ、声かけてくれればよかったのに」
「徹夜明けで汗臭かったので」
「気にしませんよ」
 コバトさんは笑っているが、コバトさんが気にしなくとも先生は気にするだろう。今だってほら、コバトさんが来てからただでさえ進みの遅かったビールがすっかり動きを止めてしまった。
「コバトさんは」
 同じように笑いながら先生は言った。「お付き合いしてる方とかいないんですか」
 デジャヴ。同じ質問を先生がコバトさんにしているのを俺はここで聞いたことが、ある。いや、同じことが二度あったというのはデジャヴとは言わないんだっけ。
「いるように見えます?」
 コバトさんがそう聞き返すのも、同じ。前の時は先生は黙ってしまってそのまま生湯葉を注文していたけれど、今日も生湯葉の出番だろうか。
「見えないです」
 先生は言った。「コバトさんは付き合ってない女の人の家にフラッと泊まれる人ですか」
 生湯葉どころではない。この人は誰に何を訊いているのだろう。相手はコバトさんだ。女の人の家に行っても、布を引き出しにしまい込んでいたという理由で帰ってきてしまうあのコバトさんなのだ。他人を自分のテリトリーに踏み込ませず、自分も他人のテリトリーに立ち入らないコバトさん。そんな人が「お泊まり」だなんて――
「そうですね」
 コバトさんは笑って答えた。
「泊まったんですか!?」
 自分でも思ったより大きな声が出て、俺は少し恥ずかしくなった。おや、こんなことも前にあった気がする。普段会話に割り込むことのない俺が突然声をあげたものだから、先生は少し驚いたような目で俺を見た。
「……大将、『いらっしゃいませ』より大きい声出るんですね」
 大きなレンズの奥で先生が何度も瞬きをしていた。
「あ、すみません……」
 俺はそれ以上掘り下げるができず引き下がった。
 けれど、コバトさんがお泊まりだなんて。やはり編集さんのところだろうか。それにしても、先生はどうしてそれを知っているのだろう。
「先生、泊めてくれるんですか」
 コバトさんは自分の右肩を軽く叩きながら訊いた。
「嫌です」
 先生はいたって平坦な声で答えた。
「だろうと思いました」
 そしてコバトさんはまた笑う。
 ふたりはそれから、いつもと同じように他愛ない話をして、いつもと同じようにコバトさんは笑って肩をさすり、いつもと同じように先生は時間をかけてビールを飲んだ。
 俺だけがなぜだか戸惑って、いつもと同じように振る舞うことができなかった。

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