ひまわり泥棒コバト 12

「もう諦める?」
 赤ペンを片手に自分のデスクで後輩のまとめた原稿に目を通していた私の頭上から、声がした。目を上げれば編集長の城山さんが、開いたノートパソコンの上からこちらを覗き込んで微笑んでいる。
「諦める? 何を? あ、これ? いや、内容自体はちゃんとしてますよ」
 私はそれまで読んでいた原稿の束をひらひらと振った。これを書いた新人の桐谷ちゃんは、顔のつくりとやる気には100点満点をあげてもいいくらいなのだけれど、ライターとしてはがんばりましょうの判子を捺したい。私がざっと目を通しただけでも原稿は赤入れでびっしりだ。
「それじゃなくてさあ、例の。鶴の恩返しみたいな」
 城山さんは苦笑いしながら、猫のように丸めた両手をすっすっと前後に滑らせた。どうやら機織りのジェスチャーらしい。
「……コバトさんですか」
 鳥のような名前と機織り。確かにあの昔話を連想させる。恩返しか。確かに恩なら売った。一晩泊めてやっただけだけれど。

 あの日、私の部屋の床で寝入ったコバトさんはそのまま朝までそこで眠っていた。本当にただ眠っていただけで私に指一本触れて来るわけでもなく、朝になるとすみませんでしたね、と笑って帰った。それだけだ。甘い空気も淫靡な雰囲気も何もなく、ただコバトさんはそこにいてそこから去った。一宿の恩返しもせず。

「ずっと押しかけて、まだOKもらえないならもう別のもの見つけてそっちへ取り掛かるのもいいんじゃない」
 仕事は自分の足で取りに行け、というスタンスの城山さんだが、無理でも行けと根性論を押し付けるような人でもない。退く時は退け、と私は教えられてきた。
「もうひと押し……かもしれないんですよ」
 そう呟いて私は城山さんの近頃後退し始めた額を見つめた。おやおや、また面積が広がってきてはいないかしら。
「まあ、それならいいや」
 城山さんはまた苦笑いして自分のデスクに戻った。コバトさんを追いかけながらもきちんと自分の仕事はしているし、コバトさんの行動範囲が私のアパートの近所なものだから交通費もかからない。この編集部自体に大きな痛手はないはずだ。それなのに城山さんからこうして声をかけられたのはきっと、城山さんが彼なりに純粋に私を心配してくれているから、なのだと思う。
 城山さんにとって、私はいわば「一番弟子」だ。新人の頃から仕事を教え込み、ここまでついてきた部下は今では私しかいない。そんな私がコバトさんに「手こずって」いるものだから、城山さんも気が気ではないのだろう。
 私も、もうあのコバトという作家を追うことは諦めた方がいいのかもしれないと思うことはある。しかし自分にまだ言い聞かせる、「あともう一押しかもしれない」と。
 私が女々しくこの案件を手放そうとしないのは、これを諦めてしまえば彼を追いかけ回す口実がなくなってしまうからだ。あの男との繋がりが断たれてしまうのが、少し、惜しいのだ。
「あともう一押し」
 私は小さく呟いた。その一押しは私の何を変えるだろう。

「しつこい人ですね」
 焼酎のタンブラーを傾けながら、派手な色のシャツを着たコバトさんが笑う。「やま」のカウンターで私がまた取材の話を打診したからだ。
「それが私の仕事なので」
 私が言うとコバトさんは困ったように眉根を下げた。
「僕が取材を受けないことで、編集さんは死にますか?」
「は?」
 コバトさんの質問の意図がわからず私は間の抜けた声を出すことしかできなかった。死、という物騒な言葉のせいか、驚いたような顔で大将もカウンターの向こうからこちらを見る。
「死なないでしょう。僕ひとりのために困窮するような小さな雑誌でもないはずですし」
 コバトさんは言って、シイタケを齧る。もし私が死ぬ、と言えば彼は取材を受けてくれるのだろうか。しかし私はそれを言わない。そういった嘘をこの人は嫌うだろう。
「どうしてもだめでしょうか」
「どうしても嫌です」
 コバトさんの拒絶は穏やかで、しかし意志はとても強い。コバトという男との距離が、カウンター席ひとつ分よりももっと遠くなってしまった。
 今の私の心情は、「悲しい」というものにとても似ている。取材を申し込んで断られたことは、今の職についてから十年余の間に何度もあった。その都度私はいつも悔しい思いを噛み締めていたのだけれど、なぜコバトさんの時だけこうも悲哀を感じているのだろう。
「編集さん」
「……はい」
「生湯葉、食べたことありますか」
「あります」
「このお店の生湯葉です」
「それは、ないです」
 なぜ突然、湯葉の話など始めたのだろうか。豆乳を火にかけて上に張った膜。嫌いではないけれど。もしかして、その湯葉を何かに喩えて私を諭そうとでもしているのだろうか。まるでキリストのように。
「それはもったいないことですよ」
 コバトさんはそう言って笑い、生湯葉を一皿注文した。「分けてあげます。食べてください」
 「やま」の生湯葉は、濃い豆乳にひたひたに浸かっていた。わさび醤油で、とコバトさんが言うので私は湯葉をひと口分自分の皿に取り、わさびを乗せて醤油を数滴かける。
 確かにおいしかった。とろりとした口当たりにかすかな甘み、湯葉のくにゃくにゃの歯ざわり。
「どうです」
「……おいしいです」
 私が答えるとコバトさんは笑い、大将も少し笑った。大将の笑顔がほんのちょっぴり寂しげなのは、これが焼鳥ではないからかもしれない。
「そうでしょう。僕、これ、好きなんです」
「はあ。……で?」
「え?」
「湯葉はおいしいです。だから?」
「それだけです。一緒においしいものを食べて、ああよかったな、と。それだけです」
 コバトさんは笑っている。いつもと同じ、ふわふわと掴みどころのないコバトさん。笑い皺の深い小柄な中年男。湯葉を用いた喩え話で私に深い人生観を説くわけでもなく、ただ湯葉がうまいと笑うだけの機織り職人。
 この人は、何を考えて私と湯葉を食べているのだろう。
「編集さん」
「はい」
「今日、編集さんのお家へ行ってもいいですか」
「…………」
 何も答えられず、私はふた口目の湯葉を飲み込んだ。いいですよ、と言ってしまいそうで。
「娘にまた会いたくなりました」
「娘。あのラグはコバトさんの娘さんになるんですか」
 私は自室の床に敷いた布を思い浮かべる。白と青のきれいな幾何学模様。
「ええ」
「女の子、なんですね」
「白いドレス、青いベルトです」
「サウンドオブミュージック、ですか」
 私の問いに、コバトさんは言葉では答えずただ微笑んだ。真っ白いドレスにブルーのベルト、まつ毛に積もる雪。今は真夏なのに。
「コバトさん」
「はい」
「湯葉、おいしいです」
「よかった」
 私はコバトさんが注文した湯葉を半分ほど頂いた。それはとてもおいしかった。

 コバトさんは私の部屋に来て、また一晩泊まっていった。私はコバトさんの体温を知らないままだ。


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