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ここは私たちのいない場所



白石一文著。

前回同様、初めましての作家さん。この世は本当に数多くの才能で満ちているな…。白石さんも個人的にはかなりハマった。


なんでもない一サラリーマンの日常。サラリーマンといってもかなり大手企業の役員職の男、芹澤在実(せりざわ ありのり)。結構歳のいっている男なのかと思いきや、恐らく仕事の腕を買われて若くして昇進したクチで、周囲の人間の発言を読むとこのまま出世すれば社長職も範疇内という男。
そんなデキる男のバリバリキャリア小説、という訳でもない。

冒頭幼くして死んだ妹の存実(あるみ)の話から始まる。最後まで妹の影が登場するのは、この冒頭の妹の死によって芹澤の思考が出来上がっているからなんだろう。なんでもない毎日を描写しながら、「子供」と「大人になってしまった人たち」の世界の境界線について、そして「生」と「死」の価値観についてぽつぽつ語られていくイメージ。全体的にこれも前回同様静かめの小説で、芹澤が第三者的でかなり冷静な人間だからか、時折冷たい印象すら覚える。


芹澤は独身、両親が画家と科学者で裕福な家庭に生まれ、さらにエリート路線に進んでいる故に金には困っていない。失うものがない勢いと、自分を客観視する冷静さ、情には流されない冷酷さを持ち合わせているように思う。その芹澤が部下の失態を受けて処分を考えていたところにその妻から詫びの電話が入る。是非直接詫びたいという旨の電話だった訳だけれども、何を間違えたか芹澤は会ってそのまま部下の妻(相当な美人のご様子)と体の関係を持ってしまう。実はそれが罠で、妻はその時の音声を録音して「これをばらまかれたくなければ夫の懲戒解雇だけは許して欲しい。あとは左遷でも降格でもなんでもいい」と言う。
すごい話だな、と思うよね。私もそう思った。でもここまでまだ土台説明程度で、ここから話が始まっていくといっても過言ではない。
ここで話が普通と異なる線路を進み始めるのは、その部下の妻、珠美は夫のことを愛している訳ではなく金目的に結婚していて、実はその夫、小堺も不倫しているのを知っているということ。おあいこという訳。セックスの音声を夫の職を失わせない揺さぶり道具にも、夫へのみせしめの道具にもするというなんともカオスな状況。

結局芹澤は会社で勝ち組コースを進んでいたにも関わらず、意思を曲げずに小堺をクビにしただけでなく自分もあっさり辞職する。一生一人で暮らしていく金はあるからと躊躇いもなく。家庭を持っていないということは守るべきものは自分だけな訳で、「父親」を兼任するサラリーマンとは失うものが桁違いに違う。それでも余りにも未練がないし、金があるにも関わらず女遊びをするでもなく、一人で都心の真ん中で仕事だけくり抜いた規則正しい生活を再開する芹澤に恐怖すら覚えた。


珠美とはその後も体の関係は持たずとも逢瀬を繰り返し、「惹かれている」というものでなく「懐かしさ」のようなものを感じている描写が其処此処に散りばめられている。恐らく幼い時に亡くした妹の在実と比べているんだろう。

『この世界は、子供のいる世界と子供のいない世界の二つに分かれていると私はずっと思ってきた。人間は大人になると「子供のいない世界」に身を置くようになるが、その大半が親となって、再び「子供のいる世界」へと舞い戻っていく。』

『明日には死ぬと分かっていたとしても、呼吸が苦しくなり意識がかすれていくなかで、これが死に直結する意識の混濁なのかどうか我々には判別がつかない。結局、その判別がつかないままに私たちは「本当に死んじまう」のであろう。』



こんな風に、あれこれのエピソードや出会いが芹澤の前を駆け巡っていく中で、「子供」「生死」についての芹澤なりの結論が最後で出ることになる。こんなに綺麗に日常生活系の小説が締めくくられる小説を未だかつて読んだことがないかもしれない。

人間はみな大人になる。「子供」を通って大人になる、はずなのに大人と子供との間には大きな大きな溝がある。別の世界を生きているように感じることもあるし、でも子供は子供だけで生きていくことなどできない。大人は子供を作ることで「失い得るもの」をこの世に産み落とすことになる訳で、そのことが仕事への弊害になることも、芹澤の言うように確かにある。それでも家族を持って子供を持ちたいと思うのはなぜなのか。答えが明快に出る本ではないけれど、世で「当たり前」とされていることをもう一度ゆっくり考えるきっかけを与えてくれる本にはなると思う。

『釈尊やイエスが禁欲を戒め、聖職者に性交を禁じているのは、子供を作るなと言っているわけではないのかもしれない。むしろ、彼らは私たちに「大人になるな」と説いているのではないか。悟りをひらくためには、可能な限り「子供のままでいなさい」と言いたいだけなのかもしれない。』




白石さんはどこからこの本を書き始めたのか気になるね。この思想の流れから肉をつけていったのか、はたまた自分のような独身者の送る生活にはこんな思想が存在するんだと伝えたかったのか、いずれにせよ他の本も是非読んでみたいと思う個人的にはかなり好きな本だった。

思想一つをこういう文章にすると大概お堅くなりすぎるけれど、小説に落とし込むだけでこんなにすんなり入ってくるんだと思うとやっぱり小説ってすごいよね。エッセイで書くより説得力があるような気がする。


そんなこんなで今日は真面目に本の概要と切り抜きを書いてみました。次はもう少し手抜きかもね。


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