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発達障害が終わる日

発達障害にかかわる問題はどうすれば解消できるのか。どうすれば克服できるのか。カサンドラ目線はもちろん、発達当事者や周囲の人間などさまざまな目線で私はそれについて考え続けてきました。

その一部として「定型と発達の組織的共存」を「発達障害者の楽園」シリーズで具体的に言及しました。

私はこの案を現実的かつ実現可能なものと考えています。やがてまた事業をはじめ法人化し組織化するとき、このシステムを採用して発達障害者の自立支援に寄与できれば──という思いもないわけではありません。

しかしこれは現状社会でうまく共存するための一手段に過ぎず、発達障害問題を抜本的に解決するものではありません。組織に属する者は幸せに自立できるかもしれませんが、外の世界は相変わらずのはずだからです。

発達障害が問題として語られる日に終わりはくるのだろうか?

私はその日がくる可能性はあると考えています。

それは「発達障害が障害でなくなる日」です。

日本から一歩外へ出てみると、発達特性を感じさせる人間はザラにいます。特に欧米人には空気を読まない人、独りよがりな人、主観でしか物事を捉えられない人、約束を守らない人、いい加減な人、行動がうるさい人などほとんど当たり前にいると言っていいでしょう。

ところが彼らは必ずしも発達障害者ではありませんし、日本の発達障害者ほど人生に困っている様子もありません。

日本と違い気軽に(それこそスーパーに買い物にでも出かけるような感じで)カウンセリングサービスを受けられる慣習がその理由の一つかと思いますし、日本より離婚に対して寛容な社会風潮もあるかと思いますが、根本的にその国の社会全体が「まぁまぁ適度にやってこうぜ」で何となく意識が統合されているからだと個人的に思います。

つまり本当の意味で多様性に寛容なのです。

これぞまさに国民性でしょう。

もちろん全国民が「足並み揃えよう」と申し合わせたわけではないはずで、要するに「できる人もいるしできない人もいるし、全体の平均点が下がろうがそれが現実ですが何か?」みたいなスタンス。社会全体はもちろん、個人でもそういう価値観を持つ人が多い印象です。

その点、日本はとにかく「全員で頑張って平均点をあげよう」というスタンスです。社会全体がそうですし、これは企業を見ていればよくわかります。できる者が特別優遇されるわけでないが、できない者は端に追いやられる。できる人にとってもできない人にとっても息苦しい社会です。

日本のこの病的な体質を多くの人が自覚すれば、やがては「発達障害が負担にならない社会」が実現されるかもしれません。

残念ながら私は、これから日本がそうなる確率は限りなくゼロに近いと感じています。もちろん社会全体が本当の意味で寛容になれば、それに越したことはありません。しかしそれが現実的に難しい以上、新しい概念の上に成り立つ組織を作っていくしかないと考えています。

発達障害に苦悩する日々の終わりを願って。

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