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私は定型発達者ですか?それとも発達障害者ですか?

発達弟に関しカサンドラになってからというもの、私は「自分は発達障害者なのか、それとも定型発達者なのか」という疑問を常に抱いてきました。経緯など概要については「発達障害とカサンドラのヤバイ関係」や「ぐっばいカサンドラ」などをご覧ください。

今は「自分は定型だ」と取り急ぎ結論づけています。その理由は後述しますが、それでも「でもなぁ?」と思うところがないわけではない。なぜなら私の性格は「定型のそれ」で説明できる一方、「高度に発達した発達障害者」としても説明できるからです。

この問題で苦悩してはいません。しかしいまだ考えるところではあります。ここにその思いを記しておこうと思います。今回のテーマは「発達と定型の違い」です。


カサンドラあるある「自分が発達かも……」

「自分も(が)発達障害かも……」

カサンドラの多くが体験している心情だと思います。Twitterでもカサンドラの方が「(むしろ)自分がおかしいのかも」と発言するのをたくさん目にしてきました。

カサンドラには、確かにそのプロセスがあります。

ぶっ飛んだ人間を相手に「もしかして自分の方がおかしいのかも?」と思うのは、ある意味正常な反応だと思います。環境や思い込み、バイアスを利用して強制的に価値観を捻じ曲げていく手法。人を洗脳する際に行われる常套手段ですが、カサンドラは自分で自分にこれをやっている──やらざるを得ないのでしょうね。そうしないと自分と相手との価値観に整合がとれないのですから。理知的な人が異常なものを目の当たりにしたときにまず「自分の常識を疑う」というのは当然の成り行きで、これができるカサンドラ方々はおそらく聡明で思慮深いのだと思います。

私もそんな問いを自分自身に投げかけていましたが、ふと冷静になると、「いや、自分には弟みたいな発達特性バリバリの超絶パフォーマンスはない」と気付く。

それでも私がいまだに「でも自分にもそういう特性があるのでは」と考えるのは、私の母と弟が特性バリバリ、父もあやしい、親戚にもそんな気のある連中がいる中で、私が定型として生まれる確率はいかほどだろう──という疑問があるから。

こういう背景がありながら、それでも私が「自分は定型だろう」と結論づける理由があります。

発達と定型の決定的な違い

発達と定型の決定的な違い。つまり私と弟などの決定的な違いは、最終的には「本人が困っているか否か」でした。

聞くところによると、弟は希死念慮こそなかったものの、「自分の存在を楽に消してしまえるのなら消してしまいたい」とずっと思っていたようです。「死にたい」ではない。「消えたい」。

そしてこうも言いました。

「人生ずっと低空飛行」

彼は発達障害だけでなく二次障害も併発していました。これは長年の鬱積した自分自身への不満や劣等感、自己肯定感の低さなどが影響しているのでしょう。発達障害に起因してのことだと思います。

一方、私にはそういう困り感がありませんでした。「私自身が鈍感で人の機微に無頓着だから」という可能性もあります。そこで「果たして自分はどうなんだろう?」と考えたとき、今一度自分の人生を振り返ってみました。これまで関わってきた人達の私に対する評価はどうであったか、自分の人間関係や仕事におけるパフォーマンス、私生活における実態などです。

そうして私が「自分は定型だろう」と結論した要点がいくつかありました。そして私が思うにここにこそ、発達と定型の大きな違いがあるように思います。

ASDとADHDの典型的な特性

自分自身と発達特性を照合するにあたり、最初に取り上げたのがASD・ADHDそれぞれの典型的な特性です。簡潔には以下の通りです。

ASD
空気が読めない(言動が場の雰囲気に不適切)。人の目を見て話せない。コミュニケーションが苦手。社会性がない。義理の概念がないなど。つまり情緒的な問題。

ADHD
衝動的(後先考えない発言=無責任な言動や行動)、先延ばし、そして特に「忘れる!」←弟も母もこの健忘的な症状がひどかったので特にここをピックアップしました。

この典型的なそれぞれの症状を鑑みると、私は過去の恋愛にしろに人間関係にしろ社会生活にしろ、あるいは妻との夫婦生活においても、ASD的な特性が自分に見当たりませんでした。

確かに私は決して短くない時間を発達文化で生きてきましたから(発達障害者に擬態して生きてきた話を参照)、彼らのルールに合わせるのは比較的得意かもしれません。定型からすると非礼に思えるような振る舞いも、私は選択的にすることがあります。空気を読まない発言も割とします。しかし必ずアフターフォローをしています。フォローありきで空気を読まない。この逆算が私の強みでもあります。人の感情にコミットして採算を合わせる。おそらくASDがもっとも苦手とする分野ではないかなと思います。

とはいえ発達当事者はむしろフォローしなくても私のそういう振る舞いを比較的フラットに受け止めてくれますから、彼らとの友人としての友好的な関係はある意味快適なんですよね。いわゆる計算や打算がないから。私もできるだけ実直に生きたい。彼らに少し見習うところの一つです。

定型への対応、発達への対応。それを選択できるのは発達社会と定型社会両方で生きてきたからこそのスキルなんだろうなと、私自身は自分の能力を好意的に解釈しています。

自分が実際に人の心の機微に疎いか?というと、自己評価はともかく周りの人間の評価はそうではありません。

「人の心にコミットする」は、人間関係やビジネスの場においても私が得意とするところでもあります。

妻に「自分はASD特性があるかもなぁ」と言ったことがあります。彼女は笑い飛ばしました。別のタイミングで「ADHDの気があるかも」と言ったこともありますが反応は同様でした。おそらく私が本気で言ったと思ってなかったのでしょう。当時は深刻に考えていました。

私がカサンドラになるに伴い彼女も発達障害への造詣をそれとなく深めてくれましたが、はたから見ると私の発言はそれくらい「アホ抜かせ」事案なのだったと思います。

妻という、もっとも身近でもっとも信頼できる評価者がいるにもかかわらず、カサンドラはこうして自問自答する。それ自体はいいことだと思います。しかし客観的な自己評価の難しさを改めて感じました。自分の評価は結局、他者に頼るしかない。なのでこの点についてはあまり深く考えず、信頼する妻(やそれ以外の友人達)の言葉を信じることにしました。

次に自分をADHD特性の振るいにかけるわけですが、確かに私も物忘れをすることがありますが、弟や母、それ以外の彼らと比較すると程度の差は一目瞭然でした。彼らの病的な健忘を目の当たりにして、「自分もそうかもなぁ」と思う余地がなかったのです。彼らは確かに病的でした。そら実生活に支障あるわ。

こういう理由で、私は自分を「定型だろう」と結論づけました。

「発達障害」という診断の価値

正直私は、病理学的な評価において自分が発達であろうが定型であろうがどちらでもいいです。弟の診断を医師に依頼したとき、「できれば私も一緒に」と申し出ました。大きな理由は「弟が一人で診療を受けるのは精神的負担が大きいかもしれない。私にも何かあるだろうから、そんだったら一緒に受けよう」という、主には弟を気づかってのことです。私自身も、もしそういう診断があるなら自分を知るいいきっかけになるかもしれないという気持ちがありました。上にあげた典型例以外にも、発達の傾向は色々とあります。その中のいくつかに自分はあてはまるかもしれない。

しかし結局は兄弟愛とでもいいましょうか。社会的に障害者と認定されることに抵抗がある人が多いのはわかっています。精神的負担は少なからずあるはず。だったら一緒にそれを受け止めようと。一緒やったら少しは気も楽やろという感じです。

今になって思えば、これをやって「弟は障害者、兄は健常者」という診断が下りたら、それはそれで彼を苦しめたかもしれません。かえって残酷かも。当時はそこまで配慮できませんでした。家系的に私にも何かあると思っていたから。いずれにせよ医師の返答は「あなたにその必要はない」でした。結果的にこれでよかったと思います。

ただ、仮に私が障害者と診断を受けて、生活の何が変わるだろうか?おそらく何も変わらない。そのカードが必要ないから。

弟には、適切な生き方の模索や適切なコミュニティへの所属、就労や今後の生活においてそのカードが必要だったと思います。だから私はそのカードを取得するため、弟の未来のために行動しました。

「障害者としてのカードが必要か否か」

つまりは「困っているか否か」、もっと言えば「支援が必要か否か」が診断の価値だと思います。

「発達障害」といういわばレッテル自体は、客観的に受け止めるしかありません。そしてそれは決して差別の対象ではないし、「個性」という言葉で消化するのは難しいにしろ、「困っている」ことに変わりないわけです。困っている人に手を差し伸べたり支え合ったりするのが文明。だからこそ発達障害の支援者や自助会などを開催されている方々は「自認が必要」と仰るのでしょう。

「発達障害」をレッテルで解釈するのはとても悲しいことです。

もしそれが自分の子供の話だったら?

発達障害を生物的弱者として同情し、時に貶め「不憫だなぁ」と嘆きますか?

私ならおそらくそうしません。

私が知る発達児を持つママ達もそうでない。

子供が生きやすいよう、幸せになるよう道筋を見極め、導いてあげようと必死に考えると思います。そしてそのためなら、社会の無意味なルールや規範を塗り替え、破っていい範囲、守らなければならない範囲を教えると思います。

私が弟のために自分を犠牲にして行動した気持ちもここです。

大切な人を守るあるいは導くための感情的な原点。

確かに彼は我が子ではありませんが、それでも可愛い弟なんです。

だからこそ感情抜きでジャッジしなければならない局面がありました。

彼は困ったり悩んだりもがいたりしている。フォーカスするべきはそこで、重要なのはレッテルでも特性でも障害自体でもない。

世間からすれば確かに属性は重要かもしれません。でも当事者は必死です。常に究極の状態にある。理屈で思考できるのは、ある意味当事者(カサンドラ含め)以外だけではないでしょうか。

物事には順序があるんじゃないかなと思います。皮肉にも、感情を抜きにしないとこの順序って正しく見えてこない。

私は合理的に考えて、その順序を順当に追って弟を診断へと導きました。

もし彼が困ったり悩んだりしていなかったら、こうはしていなかったと思います。もしかすると損害賠償で裁判をしていたかもしれません。

でも、彼が私に心を開き支援を求めたのは、おそらく私が感情的でなく合理的だったから。つまりフェアだったからだと思います。

「発達障害」という診断。

それで受ける本人の精神的ダメージや家族の心労もあると思いますが、感情論は横に置き、そのカードを本人の生きづらさを解消するためにどう使うか。その現実的なコミットに焦点をあてる必要があると思います。

「発達か定型か」の重要性

率直に言いますと、私が自分の属性や診断にこだわらないのは、おそらく単純に困っていないからです。これは定型だけでなく発達もそうだと思います。社会的に成功している発達はいちいち診断をとる必要がない。心の病などもそうですが、診断は「困っているから必要」なわけで、自分が定型か発達か──というジャッジは、困っていない限り知的好奇心の範疇でしかないと思います。

それはそれでいい。

カサンドラになって「自分は発達ではないか?」と自問自答する。自分自身と向き合ったり、自分自身をより深く知ったりするいいきっかけだと思います。

しかし結局はその程度といいますか、たとえるなら指がない人が「箸を持てなくて困っている」と言う横で、箸をうまく使えない人が「私も指がないのかもしれない」と発言したら、本当に指がない人からすると割とイラつくでしょう。その気持ちを想像すると、私は「自分も発達障害かも」なんて考える気がなくなるのですよ。

どっちが悪いというわけでもない。

カサンドラには確かに自問自答して苦悩するステージがあると思います。その時点で定型の可能性が高いんじゃないかなって。つまり、そもそも苦悩する必要がない問題なんだろうなと思います。

これは性格とか知見などでなく、カサンドラの運命というか、必然なのでしょうけど。

しかし現実問題、カサンドラの「自分も発達かも……」という苦悩と、実際の発達当事者の苦悩の間にはあまりに大きな隔たりがある。

そして少なくとも私は、この隔たりを見失っていました。

目ん玉おっぴろげていっちゃんよく見ておかなきゃならない場所だと思います。

その上で感情でなく事象としての不満や要求を声明するのが、カサンドラとしてより健全に発することができるメッセージなのではないかなと思います。

善良なる人達に、どうかシェアしてもらいたい考え方です


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