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発達障害者に擬態して生きてきた話

※この記事は7000字近くのボリュームです。お時間あるときに一気に読むのがオススメです。10~15分くらいで読めると思います。

私は発達障害者に擬態して、少年~青年時代の多くを過ごしてきました。

発達障害者が定型発達者に擬態する──というのはよく聞く話です。「定型が発達に擬態する必要ある?」と疑問に思う人もいるかもしれません。

今回は、発達に擬態して生きてきた私の話をします。

幼い私には発達社会しかなかった

ASD×ADHD夫婦がうまくいく場合で記述していますが、私の母は典型的なADHDです。診断はありませんが、受けるまでもなく露骨にそう。

父はよくわかりません。

ASD的な特性があるのか、それとも単に精神性が未熟なのか。あるいはただの亭主関白に甘んじた昭和の男──だったのかもしれません。しかし彼のいわゆる「天然」なエピソードの数々を見ると、もしかするとASD寄りなのかもしれないとも思います。よくわからないのです。

たとえば顧客と昼食を摂る際、彼はこんなやり取りをしたそうです。

父「ここの店の味噌ラーメンが絶品なんですよ」
客「ではぜひ味噌ラーメンを食べてみたいですな」
店員「ご注文はお決まりですか?」
客「味噌ラーメンをください」
父「炒飯をください」
客「えっ!?(なんで人にすすめといて自分は違うの頼むの?)」

これをもう少しわかりやすくたとえると、

客「一番観たい映画は何?」
父「ジブリかなぁ」
客「じゃあ一緒にジブリ観ようか」
父「ディズニーください」

──みたいなことだと思います。それほど面食らうエピソードではありませんが、私が父をASDではないかと疑う要素がたっぷり詰まっているように感じます。

これもう「ボケ」なんですよね。突っ込み待ちとしか思えないのですよ。

そんなわけで顧客はこれを父のユニークな個性として受け止め笑い話になり、好意的に解釈されたようです。

さて、父のこうしたエピソードは枚挙に暇がありません。そのため彼は身内からも周りからも「ド天然」と思われているのですが、天然を指摘されるとガチでキレる(いじりNG)ようなタチの悪さがありました。つまり突っ込むと「なんだその言い方は!」みたいにキレるわけです。盛大にボケてるのに突っ込めないなんて、これはもう発達劇場なんじゃない?って思うでしょうよ。

さて、彼は私や弟など息子たちを愛していたようです。しかし私は彼の愛を実感したことがほとんどありません。父に愛された記憶があまりないのです。昔、それを母に伝えました。

私「父に愛された記憶がない」
母「誰よりも可愛がっていたよ」
私「どうやって?」
母「あなたの好きな音楽のCDを買ったり、おもちゃを買ったり、服を買ったり……」

どうやら「何かを買い与える」ことでしか愛を表現できないようでした。幼少の記憶をむりやり辿ると、そういえば「ヒゲジョリジョリ(自分の青ヒゲを子どものほっぺたにすりつけるあの嫌がらせ)」を思い出します。私は本当に嫌だったのですが、彼からすると「子どもと触れ合いたい」ゆえのスキンシップだったのかもしれません。相手の嫌がることを喜んで行う神経はよくわかりませんが、これもまたASD的だなと感じます。

彼から肯定的な言葉をほとんど聞いたことがありませんし(いつも否定的)、世間一般的には「愛情表現が苦手な不器用なタイプ」で片付けられるのでしょう。

しかしおそらく彼は、(私の)母には息子達に対する自分の心中を語っていたのだと思います。ですから母は父の気持ちを理解しているのかな──と、好意的過ぎる解釈かもしれませんが。いずれにせよそれを語られなかった私に、どこでどうやって「愛は伝わっているだろう」と彼ら(あるいは彼女)が判断したのかはよくわかりません。

自己表現できない未熟な大人を「不器用」で片つけていいのだろうか?というのが私の率直な感想です。もしこれが特性によるのなら仕方のない話かもしれません。むしろいまだ息子達から敬遠される彼に同情すら覚えます。

私は今、幼い息子に毎日誉め言葉や愛の言葉を投げかけずにいられません。愛が溢れて言葉になります。スキンシップもそう。そんなわけで息子とのスキンシップにおいて、私はどうもオカマ化します。「いやーだぁもう可愛いすぎ!」ってな具合(きもい)。いよいよ本気で母乳が出るんじゃないかと思ったことも。

息子だけでなく妻にもそうです。言うまでもなく、私はそんな露骨な愛情表現を父にされた記憶がありません。時折そんな状況で「愛って何なんだろうなぁ」と考えます。

私が思うに、愛は相手に伝わり、受け止めてもらえなければ何の価値もありません。独りよがりで他者との愛は成立しないのです。たとえ親子であろうと。少なくともそれが私が知る健全な愛の形です。父の愛にそれはありませんでした。

さて、私には弟もいます。

弟は診断を受けた発達障害者です。私をカサンドラにした張本人(というと少しoffenceな言い方ですが事実です。他意はありません。詳しくは「ぐっばいカサンドラ」をご覧ください)。しかし両親の理不尽を共有する、いわゆる兄弟っぽい兄弟でした。

家庭という小さな発達社会の中、私は彼らの文化に合わせて生きてきました。

特に幼少から少年期は母の健忘症的な振る舞いを悪い意味で見習い、幼い私は「人は失敗しても「忘れてた」「勘違いしてた」と言えば無実なんだ──」と学習しました。無理もありません。お手本であるべきもっとも身近な大人が、自分の言動に責任を持たず「忘れてた」「勘違い」で免罪なわけですから、子どもがそれを社会のルールなのだと誤学習するのは不自然でないと思います。

そして弟も母と同じ調子に健忘症。加えて彼は「興味ない」「どうでもいい」「めんどくさい」を言い放ってしまうきらいがありました。私はこれを「若い奴らはこういうスタイルなんだな」と曲解してしまうわけです。そしてそういうスタイルが通用してしまう家庭でしたので、ほとんど違和感を覚えずそれに倣いました。

彼らに対し「いやいやいや、おかしいでそんなん。忘れてたじゃねぇんだよ。勘違いで済ますなよ。責任を持てよ!」と思ったことは何度もあります。しかし家庭という狭い社会で、私はむしろ少数派。民主主義の原則に則れば、私の方が異端なのです。

こういう社会にいると、事実と理屈だけが味方です。そんなわけで私は理論展開して彼らを説得するよう努める子になりました。しかし結局は記憶喪失や記憶改竄などでまったく通用しませんから、私は自分自身を救うことをやめ、その小さな社会の中で正義とされる彼らのスタイルを模倣するようになりました。

小さな頃からすでにカサンドラだったのかもしれません。

自分の正義を殺すのが習慣になると、人は長い時間を経てそれをむりやり「当たり前」と受け入れるようになります。良くも悪くも耐性がつく。結果、理不尽なことを言われても躍起になってそれに反発しなくなりました。「あ、そう」と、ある意味冷めた見方が身に沁みついてしまっているわけです。

しかしそうは言っても、潜在的に彼らの文化に対するふつふつとした怒りや、理不尽への静かな反抗心がありました。私がAC的にならなかったのは、彼らの文化を模倣しつつも、「いやそれは違う」という揺るぎない信念が底にあったからだと思います。それを支えてくれたのが、家庭外部の人達でした。

とりわけ親に対する反抗心が爆発した思春期以降、私は大人や社会に反抗的でした。両親=大人=社会という認識でしたから無理もありません。本来の自分を守るための防衛手段だったのだと、ダイエットでいうところのリバウンドだったのだと思います。

こうして私は幼少期を経、少年期から青年期にかけ、「本当に忘れているわけではないのに、都合の悪いことは「忘れてた」「どうでもいい」で済ませる反抗的で横柄な奴」へと進化したのでした。発達擬態の完成です。

発達擬態が社会では意外と好意的に受け入れられた

家庭で学んだ発達文化の手法を身につけた私は、小学生から中学生、高校生へと成長していきます。そのころの私は「忘れてた」「めんどくさい」「どうでもいい」の免罪符を片手に、「自分の言動は理不尽だよなぁ」と何となく自覚しながらも、家庭という小さな社会で学んだ常識をベースに生きていました。時代の潮流もあったと思います。時はまさにバンドブーム。音楽小僧だった私のそうした態度は、社会不適合者的な有名なバンドマン連中のそれと通じるところがありました。

幸か不幸か、これが色々な人にウケてしまったのです。

クラスメイトなど友人からは「お前はゴーイングマイウェイですげぇな(と評価されるような年齢ですし)」といわれ、女子からは「孤高の兄、素敵」と評価される。さらには教師も「お前がほかのどうしようもない不良と違うのはわかっている」と過大評価され、社会に出てからもそれは続きました。

「他人?どうでもいいわめんどくせぇ」とか抜かしているこじらせの若造が、いざスピーチをすると「気配りの大切さ」をさもそれっぽく話すわけです。会社の課長や部長が「あいつは見込みがある」と勘違いするのも何となく頷けます。不良が花を愛するみたいな「意外なギャップ」の強さを知りました。

確かに当時の私は素行が悪いにしろ、実際にいつも周りに気を配っていました。「気を配れるのに横柄」とくれば、人は「でもこいつは根はいい奴だしやる時はやる人間だ」と好意的に解釈します。仕事にも案外まじめでしたので、そんな一面も効いていたと思います。

父や母、弟など、私の家族は私からすると「自分勝手な人達」です。そしてそれを見て育ってきた私は、「こんな感じに自分勝手に振る舞うのが自然」と思っていました。

学生時代にそれが正されなかったのは、周囲のそんな歪んだ、時には純粋な評価があったから。つまり私は図に乗っていたわけです。

社会に出てからも私は自分のある意味反社会的(?)な行動にほとんど疑いを持っていませんでした。むしろ周りからそれが変に評価されると、いよいよ発達擬態に疑問を抱かなくなります。

しかし今になって思うのは、家庭外の社会で私が好意的に受け入れられたのはおそらく、「ぶっ飛んでるクセに案外まとも」という、定型要素の片鱗が至るところに、無意識的に表れていたからだろうと思います。

私が発達擬態をやめたきっかけ

10代後半から20代にかけて、私の発達擬態は独自の成長を遂げ、本格的なアウトローになっていきました。過激な音楽をやっていたこともあり、私の行動はエスカレートするばかりでした。

家庭で学んだ横暴免罪カードと当時流行のミュージシャン的な価値観カードをクロスオーバーさせた謎カードを片手に生きてきた私ですが、それと決別する時がやがて訪れます。

段階的にそれは訪れましたが、「妻との出会い」が決定的でした。

妻は当時の私に魅力を感じてくれていました。どんなところが魅力的だったのかと訊くと、「細かいことにこだわらない(自分もテキトーだから人のテキトーにも寛容)」「自然体を肯定する生き方(非常識を肯定する発達擬態力)」「私が自分で「ダメ」と思うところを全部肯定してくれた」などでした。

そのくせ当時の妻の私に対する評価は「しっかり者」でした。

ここでも「ぶっ飛んでる癖に案外まとも」が効いていたように思います。

妻が特段そういう男性を求めていたわけではないと思います。ただたまたま出会った私がちょっとぶっ飛んでいたので、「あ、こういう生き方が許されるんだ」と、世知辛い普通の社会で生きている彼女の目に魅力的に映ったのかなという認識です。

しかしその後、私は経営と出会います。

なんとなーく自分勝手に生きてきた今までと違い、ビジネスの場では色々なことをそれなりにきっちりやらなければなりません。ここで私の「定型」が爆発しました。今まで「知らんがな」や「くそくらえ」でやってきた私自身の、心の奥底にずっとあった疑問や不満、不完全燃焼な思いがいきなり水面下から飛び出して、「忘れてた」は「いや忘れてねぇよちゃんとせい」、「めんどくせぇ」は「めんどくせぇをファッション的に言うのをやめい」、「くそくらえ」は「クセが強い!」といった具合に、本来の自分が生活を支配し始めたのです。

今まで人から何かに誘われても「めんどくせぇな、くだらねぇことに誘うんじゃねぇよ」と(ファッション的に)言っていた男が、いきなり「人のお誘いを断り続けていたら、そのうち本当に誘われなくなるよ。それが人間関係でしょ。人様のお誘いには喜んで応じようよ」とか、真逆の思想を抱き始めるわけです。つまりいきなり元(本来の自分)に戻ったのです。

愛した妻が普通の人間(定型)だったからでした。

彼女に一気に定型の世界に引き戻された感がありました。彼女が私に「そんな生き方もあるんだ……」と感じたのと同じように、私も彼女のごく当たり前でごく自然な生き方に「そんな生き方もあるんだ……」と思ったものです。

こうして、発達擬態から始まりどんどん道を反れていきながら、私は妻との出会いや事業を通していきなり一般社会へと、心も価値観も行動も唐突に移行しました。

このとき妻は、私がまるで人が変わったように感じたそうです。しかし私はもともと「こっち側」なのです。

要するにずっと抑制してきた自分の芯の部分を表出するべきシーンに人生が差し掛かったというだけの話。そのタイミングで私はついに発達擬態の呪縛から解き放たれ、本当の自分らしい生き方を選択するようになりました。

「花?知らんわそんなもんどうでもええ」と言いながらもそれを踏み潰すのを避けて通ってた奴が、「花はきれい。水あげよ」と自然体で言えるようになったわけです。

妻にとって発達擬態の自分と定型バリバリの自分、どちらがよかったか。最近彼女に訊きました。妻は「大雑把で寛大な昔(発達擬態)がよかった。でも今が一番いい」と答えました。

今。

今の私は、どっちつかずです。

発達社会の中で擬態していた自分と、定型バリバリだった自分のちょうど中間といった具合。つまり両者のいいとこどりをした形だと思います。この温度感はおそらく、発達にとっても定型にとっても心地いいのではないかと思います。ましてカサンドラを経て得た、研ぎ澄まされた温度だと思います。そしてこの温度を事業の現場で実現できれば、それは誰にとっても心地いいだろうなぁと、発達擬態目線でも定型目線でも思うのです。

発達と定型の違い

長らく発達に擬態して生きてきましたが、カサンドラになり発達障害を学ぶにつれて「自分は本当はどっちなんだろう?」とよく考えたものです。

家族のほとんどに発達傾向が見られる中で、自分が定型として生まれる確率はどれだけのものなのだろう?とも考えました。

しかし結論として、私は定型だろうと思い至りました。

カサンドラになってから私は、「本当は自分の方がおかしいのではないか」とひたすら考え、発達弟の奇行を何とか自分の中で正当化しようとしていました。とても客観的だったとは思えないのですが、手順としては順当だと思います。他人を責める前にまず自分を疑う。しかし心を病むとどうにもその思考が暴走しがちで、まして私は発達擬態で生きてきたこともあり、いよいよどっちが本当の自分なのかよくわからなくなっていたのです。

しかし彼らを模倣してきたはものの、結局は受け入れられない。手法だけ真似できても、思考がどうやっても発達にはなれないと感じます。感覚(や能力)が圧倒的に違い過ぎるのです。逆もそうでしょう。私の両親が私の言い分を理解できないのも本質的には同じことです。

ただし私は彼らを真似っこできますが、彼らは私を模倣できないのです。弟との仕事を通してカサンドラになり、私が行きついた結論は「発達×定型の悩みは相対的」ということ。

たとえばこちらは日本語を話す。相手は英語を話す。疎通の不自由さに感じるストレスは、立場や境遇の差こそあれど本質的にお互いそう変わらない──という意味で、私はこれを「相対的な問題」と考えています。

とはいえ、私がたどたどしく英語を話せたところで、なぜか話が通じない。言語の次にくる人生観や宗教観みたいなものが大きく立ちはだかる。「ああ、言語じゃないか。文化か。きつっ」と思うところもあります。外国人とのコミュニケーションにおいてまま感じる不満ですが、発達障害者との疎通で感じるストレスの質ととてもよく似ています。

発達擬態は、私自身の人生においては意外にも大半はプラスに働きました。家庭での嫌な思い出も多いですが、総合的な経験としては悪くなかったと思います。発達の行動に感じさせるハートの強さ(彼らのメンタルは実際にはガラスですが)を学び、それを運用できるようになった定型はある意味最強なのではないかとすら思います。

私が発達障害者に寄り添いがちなのも、根源的にはここ。彼らの真似をして生きてきて、それが自分にとって心地よかった瞬間が確かにありました。そして妻だけでなく、私のこういうスタンスが過去に友人や会社の部下やその他諸々にも、いい影響を与えていた部分があると思います。

彼らの特性は確かに加害的ですが、一方で(特に現代社会において)「生きやすさ」を提示する一面もあると思うのです。少なくとも私は、定型的にきっちりかっちりやるよりも、擬態していた頃の感覚で人のミスに寛容であったり、細かいことにこだわらなかったりした方がストレスがありません。そしてそのスタンスが自分だけでなく、家族や顧客や部下などのストレスを軽減する一助にもなりました。

発達社会で生き、その後に定型社会もやってきましたが、私としては「現代社会、もうちょい発達文化を採用した方がええよ」というのが本音です。

しかしこれが家庭となるとまったく別の(解決がとても困難な)問題になるのが難しいところ。

この問題を根源的に解決する策はまだ私には見えませんが、小さな一歩を踏み出す知恵やアイデアが得られたのは、発達文化をよく見てきたからこその恩恵だと思っています。




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