悲しみに溺れないために必要なもの
人生には必ず苦しみの伴う出来事が起こります。
人はそれを克服するために先人の言葉に耳を傾けたり強い人を頼ったり、とにかく悲観的な感情を自分からいかに遠ざけるかに多くの時間と労力を費やします。
信頼できる人への相談や自己啓発セミナーへの参加、読書、あるいは専門家への依頼など、ケースや考え方などにより人がとる行動は変わってくるでしょう。しかし本質的に人が求めているのは「どうすれば苦しまずに済むか」「どうすれば状況が改善するか」「どうすればもっと強くなれるか」というところではないでしょうか。
私はカサンドラになって、改めて確信したことがあります。それは「すべての人の目に世の中が同じように映っているわけでない」ということ。
世界は人によって見え方がまったく違って、人間は生まれながらにして平等なんかではないということ。そして持って生まれた性格や特性や境遇により人の運命は大きく変わるということです。
当たり前のことですが、この当たり前をしっかりと胸に刻む機会は実はそう多くありません。
私はこれまで、いくつかの悲しい出来事を体験してきました。秘密のカーテンに覆われた少女のベッドルームのように、私は自分の素性や体験を人の目につかない場所にひっそりと供え、静かに供養しようと思っていました。
ですが一点だけ皆さんに伝えたいことがあり、そのために今こうしてお話ししています。
人は何とか強くなり、何とか状況を変え、何とか前に進もうとする。
でも果たして、人は本当に強くあるべきなのでしょうか?
そもそも強さとは何なのでしょう?
カサンドラになって心を病み、大切なものをたくさん失った私は、それでもこうして今日も生きています。生きる意思がとりわけ強いわけではないかもしれません。かといって死にたいわけでもない。「生きる」の本質とは本来こういうあいまいなもの。そこに無理やり意味を持たせようとするのは文明を持つ「人間」らしい価値観ですが、我々は人間である前に一匹の動物なのです。
人は生まれながらにして平等ではありません。感受性もさまざまですし個性もさまざま。打たれ弱い人だっているし敏感でナイーブな人だっている。
考え方を変えれば、あるいは励まされたり慰められたりすれば壁を乗り越えられるというなら、そうするのがいいでしょう。
しかし世の中には自分にも他人にもどうしようもないこともあります。
そういうものはただただ受け止めるしかありません。
苦しみから発狂してしまった人も、人格が変わってしまった人も、他人を顧みなくなってしまった人も、愛を捨てた人も、そして自殺してしまった人も、私には責められない。誰にも責められないはず。
人間はみんな、生まれ持って見えている景色が違うのだから。
自分と見えている景色が違うからといって、それを安易に否定することそのものがすでに「人間らしくない」と私は思うのです。
苦しんでいる人には、どうか自分を責めないでもらいたい。そして無理に強くなろうとする必要もありません。無理をしてまで人間らしくあろうとするのでなく、動物的な直観で自分に優しくしてあげてみてください。
苦しみや悲しみは、必ずしも克服しなければならないものではありません。
時間だけが解決してくれる問題もあります。
苦しみの渦中にある人間は、流れる川に放り出されたようなもの。もがけばもがくほど体が沈み苦しみは増しますが、流れに身を委ねればやがて体は浮いて楽になり、向かうべき場所へと運んでいってくれます。
「人生をもっと楽にするために今を頑張る」
「人生をもっと楽にするために努力を惜しまない」
こういう言葉が飛び交う現代社会ですが、
「人生をもっと楽にするために肩の力を抜く」という当たり前の視点が、我々には欠けているのかもしれません。
悲しみという川でもがくのでなく、肩の力を抜いて浮いてみる。
ときには感情任せに思い切り泣いてもいいですし、寝込んでもいいです。そうしたいのなら、体がそれを求めているということ。そうしてすべてを自然に委ね、やがて見えてくる安寧があります。
苦しんでいるなら、どうか力を抜いて浮いてみてください。
濁った水中から顔を上げれば、いつしか陽光が水面を照らす美しい光景が見えてくるかもしれません。
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