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【ep19】自己評価の低さの功と罪

発達弟は、自己評価がすこぶる低い。

そのせいか性格は大人しく控えめで、一見すると謙虚にすら見える。実際自己評価が低いのは、自分の特性をよく理解していなかったこともあるのだろうし、そのせいで周囲から敬遠される経験が多かったことにも理由があるのだろう。

自己主張の強い発達に比べれば、彼はある意味扱いやすい。それは彼にとっての処世術のようなもので、要するに「何かして失敗するくらいなら、何もしないでおこう」という自己防衛なのかもしれない。

ところが発達の特性というのはごまかして何とかなるものでないため、一緒に過ごす時間が多くなるにつれてメッキが剥がれ、最終的には人に見限られるという経験が多いようだ。

とりわけ彼に関していえば、決して反抗的ではなかった。間違いをおかせばしおらしくするし、少なくとも理不尽な理由で自分を正当化するような真似はごく限られた場面でしか見られなかったように思う。

一方、自己評価が低いせいで彼は能動的な思考ができなかった。ブレーンストーミングで能動性を養おうにも、自己発信的な思考をとっくに止めてしまっているかのようだった。傍から見れば「協調性のない人」「空気の読めない人」「頭の悪い人」といった厳しい評価になるだろう。

とはいえ自己評価の低い発達は、定型社会においてまだ救いがあるように思う。反省できるかどうかはともかく、「後悔」という感情には必ず自責の念が伴うものだ。それはとても人間味があり、共感を呼ぶ感情である。実務上その感情がまったく何の役に立たなかったとしても、人間としてその思いに共感し「何とかしてあげたい」と思う人は少なくないはず。結果としてその寄り添い感情がカサンドラを生む可能性もある。どう対処するかは各々の裁量に委ねられるだろう。しかし少なくとも「後悔」の感情は定型の共感を呼びやすく、最悪でも現状社会での延命措置には有用なはずだ。

いずれにせよ自己評価の低さというのは、ある意味定型社会で生きようとする発達の最後の拠り所のように思う。少なくとも一時しのぎのカードとして使えるのであれば、受動型発達当事者はそのしおらしさを大切にするべきかもしれない。

一方こうした振る舞いさえ欠落した発達は、おそらく定型社会で生きるのはいっそう難しいだろう。「自己評価の低い発達」よりも「自己評価の高い発達」は共感されにくいし反感を買いやすいからだ。定型が発達に譲歩しようという努力の同程度以上に、発達は定型のいう「謙虚さ」や「慎ましさ」への理解を深める努力をするのが望ましい。この定型社会で生きようとするならなおさらである。

どの企業にも営業マンが必要であるように、あるいは政治で外交官が求められるように、発達は発達なりに定型へ営業するのが得策ではないだろうか。定型もまた「許容」という切符を片手に発達へはたらきかけ、社会的な共存を促すのが賢明だろう。要するに、どういう場においても歩み寄りや譲歩が必要であるということで、「それができない人達」と自認するなら関係はそれまでである。

事実、発達はこうした人間的な社会原理をよく理解していないような印象を受ける。だからこそ本項では、あえて口を酸っぱくして本音を書かせてもらった。人によっては私の言葉に反感を覚えたり、否定的な感情が芽生えたりするかもしれない。これも現場目線の一つの意見としてお留め置きいただければ幸いである。


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