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【ep10】カサンドラが僕から奪っていったもの

カサンドラになってもっとも苦しいのは、フラッシュバックである。

発達弟とかかわって、僕の体は何かが変わってしまった。何が変わったのかよくわからないが、感覚としては「脳が萎縮した」ような感じがある。あるいは脳血管が詰まりかけているだとか、脳機能が損傷したとか……とにかく脳に何か問題が起こったような気がする。

それに追い打ちをかけるのがフラッシュバックの負担である。

何かのきっかけでトラウマが急に蘇るこの現象。当時の感情や感覚が生々しく蘇るので気が狂いそうになるのだった。

発達弟にまるでサンドバッグのように毎日ボコボコに殴られていた(ような気分だった)あの日々、その壮絶な苦しみが抗いようのない苦悶とともに急に再現されるのだ。まるで空から豚が降ってくる怪奇現象を目の当たりにするように、僕はただ茫然と立ち尽くすしかない。

それが一度起こると、僕は反射的あるいは本能的に自分の身を守ることしかできなかった。この問題の深刻なのが、息子の行動によってしばしばフラッシュバックのトリガーを引かれることである。

発達弟の行動と3~4歳児の行動は非常によく似ている。たとえば便器に小便をひっかけるだとかご飯やお茶をこぼすだとか出したものを片付けないだとか──息子のとりとめもないその一つひとつの行動が発達弟のそれにリンクして、心がいちいち過剰に反応してしまうのだ。

とても消耗する。

子の後始末をしてあげるのは親の務めである。しかも本来ならそれは僕にとって決して苦になる行為ではない。でもカサンドラになってからは「何人も俺に迷惑をかけるな」といわんばかりに、僕はとにかく人の世話ができなくなってしまった。息子がお茶をこぼしても、それを拭いてあげることができない。妻に「息子がお茶をこぼしたから拭いてくれるー?」と頼むことすらできない。傷みに耐える手負いの虎よろしく、微動だにせずただひたすら苦しみをやり過ごすしかできないのだ。妻からすれば「あなたそこで何してるの?」というものだろう。

僕の場合、発達弟と別れてからこれから自分の身に起こるであろう症状などについてあらかじめ予測し妻に伝えておいた。だからまだ彼女は理解があった。本当によかったと思う。情けないが、今は妻に甘えさせてもらうことしかできない。

これは息子だけに限らず、妻に対しても同じだ。

たとえば妻の運転で外出しているときなどもそうである。妻はよく道を間違えるし、その日の計画を忘れることがある。そのたびに僕は心底うんざりして不機嫌になってしまう。本当は「いい加減にしろ!こんなくだらないこともまともにできない奴に足を引っ張られるのはうんざりだ!うんざりなんだー‼」と声を大にしてヒステリックに叫びたい。

僕が不機嫌になっているのを、おそらく妻は気に病んでいるだろう。あるいは軽蔑しているかもしれない。恐怖を感じていたり、悲しんでいたりするかもしれない。いくら心が病んでいるとはいえこれはあんまりだ。それはわかっている。

どうしてこんなことになってしまったのだろう?

現在、妻とはセックスレスである。恥ずかしい話だが、出会ってからずっと僕たちは情熱的に愛を交わしてきた。十年たっても初々しかったころのように手をつなぎ、頬にキスをして「好きだよ」と言い合える仲だった。

でも今はもう男としての魅力を感じてもらえなくなったのかもしれない。僕も妻にイライラすることが多くなった。

とはいえ少なくとも前より関係は持ち直している。この数か月で僕たちの関係は一気に悪化した。誰が悪いのか?何が悪いのか?もう正しい答えを見つけることすら困難かもしれない。それでも何とかお互いに歩み寄りながら、前に進めている気がする。

妻に感謝しているし愛しているのに、フラッシュバックした時の僕の妻に対する目つきは、きっと汚物でも見るように侮蔑に満ちたものなのだろう。

それは誰に向けている目なのか?

きっと妻でなく、妻の向こう側にいる弟、さらにその向こう側にある不公平で理不尽に満ちた社会に向けた目なのかもしれない。

こんなはずじゃなかった。

この溝を果たして埋められるだろうか?


解説)

発達弟と離れても、まだ続くカサンドラの苦しみ。

妻は実際におっちょこちょいなところがあります。とはいえ発達障害者のそれに比べると雲泥の差。単に性格の範疇であり実害はありません。ただ当時の私はおそらくそういう部分が弟の特性に重なって、過剰に反応してしまっていたのだと思います。

2020年9月現在、今からちょうど3~4ヶ月くらい前だったと思いますが、妻と大ゲンカをしました。このとき私はついに感情を爆発させて、とにかく妻に言いたいことすべてを言いました。妻も私に言いたいことを言いました。そして冷製になってからお互いのことについてそれぞれ考えました。

これが私達の最後のケンカです。

この出来事を機に、私のカサンドラ症状が劇的によくなっていきました。フラッシュバックも急速に減ったのです。逆に言えばほんの3~4ヶ月前までフラッシュバックに悩まされていたということで、後遺症の深刻さを改めて感じます。発達と離れてからもう2年は経過しているわけですから……

妻とケンカしてなぜカサンドラが回復したか。

私はこう分析しています。

おそらく私の中では、いつしか弟と妻が同化していました。共通点は「自分に被害をもたらすもの」です。当初、妻のささいなミスに過敏になってしまうのは仕方なかったかもしれません。弟のトラウマがありましたから。

弟を責めたい気持ちに端を発していたそのトラウマは、いつの間にか「妻を責める気持ち」というまったく別の物に変化していて、私はそのことに気付いていませんでした。妻と膝を突き合わせながら対話をして、ようやく気付いたのです。

この瞬間、カサンドラの魔女は私の心を支配できなくなりました。

弟への怒りや憎しみ、悲しみ、失望、綯い交ぜになったその感情が、いつしか弟でなく妻に向けられていた。

妻からすればとんでもない話です。

それにもかかわらず健気に私を支え、励ましてくれた彼女には感謝しかありません。

今、私達の関係は元の状態に戻りつつあります。発達とかかわる前のような、仲が良くていつも笑っている夫婦です。私たちは本当は、出会ってからずっとこうだった。

カサンドラを追い払った妻との大ゲンカの詳細についても、いつか書きたいと思います。


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